親父は日がな一日そうしているように、相変わらず居間に置いた背もたれの高い椅子にもたれて座り、うつろな目で少し陽が射して明るくなった縁側を眺めていた。
「もう春だな・・。縁側の敷居を超えてた陽がここまで届かなく無くなってきた・・。冬にはここまで届いてたのになぁ。」
親父と居間のちゃぶ台をはさんで新聞を広げ、老眼鏡越しに求人欄を見ていた私に話しかけるでもなく、独り言のようなあいまいな物言いで親父は声を出した。
「親父さぁ、なんか公民館とか役所前のそういうクラブとか行ってみたらどうなんだ。まだ杖があれば歩けるんだし、一日中そこでぼーっとしてたってしょうがないだろ。」
親父は体の向きを私と反対側に向け、すねたように小さな声で言った。
「動くと腹が減る。」
「なに言ってるんだ・・。貧乏だから食うものを我慢してるっていうのか?俺へのあてつけか?こんな時代なんだ。仕方ないだろ。俺だって仕事したいさ。そりゃ親父の貯金に今は頼ってるよ・・・。でも俺だってもう52なんだ。仕事はそう簡単に無いんだよ。俺の年金はまだ先だし・・。そんな事言うなよ。」
親父と私は祖父の代から勤めていた工場の旋盤工だった。この街は大企業の下請けの町工場が多く、一時代を築いたが、親会社の海外進出でどんどん町は寂れていった。親父は定年まで勤めたが、私は一昨年工場の閉鎖と共に職を失った。
親父は工場が無くなった事がショックだったのか、それ以来、日がな一日居間の椅子で過ごすようになった。まだ私が工場に勤めていた頃、定年退職した親父はしばらく昔から好きだった魚つりに没頭した事もあった。私を生み、私の命と引き換えるように亡くなった母親の代わりに、男手一つ好きな事も我慢して私を育てた父だ。懸命に育てた息子が一人前の旋盤工として工場に認められ始めた事を誰より喜んだ。
私はと言えば、しばらく職を探したが、この年齢で正規雇用しようという企業は無かった。得意の旋盤の腕前も、小さな工場なら役にも立とうが、大手の工場はみな海外進出してしまい、それこそ閉鎖した私と親父が勤めていた工場と同規模の工場はみな青色吐息で、私の年齢を雇う余裕があるはずもなかった。今は短期のアルバイトと親父の貯金でなんとかしのいでいる。
「夕飯買ってくる。」
節約の為、出来るだけ自炊する事にしているのだが、買い物を理由に外へ出たかった。
私は外にでると、ため息のように深呼吸をした。こんな状況で親父と家にいるのは気が滅入って長くもたない。それでも親父が介護を必要とするほど健康を害していたり、ぼけていたりするわけではないから、まだ幸せだと思わなくてはと自分に言い聞かせたりするのだが、やはり気は晴れない。より不幸な他人と比べ、その他人の不幸の上に成り立つ幸福感を本気で信じ込める歳廻りはとうに過ぎてしまっていた。
近くに新しくできたお弁当屋がある。中年の恰幅が良く何処かで見たような顔の、あまり愛想の無いおばさんと、とびきり美人ではないのだけれど、なぜかその笑顔を見ると自然にこちらも笑顔になってしまうような不思議な魅力のある若い女の子がいる店で、まずまず流行っているようだった。私はその若い子がいるからなんとなく店がはやるのではないかと思っている。特に根拠は無い。
町に活気があった頃ならもっと流行ったのだろうが、今の景気じゃなぁ等と考えている自分に気がついた。自分の立場など考えず、上から目線で物事の感想を持つのは、新聞やテレビのその態度に毒されているからだと何かで読んだ事を思い出した。
『先んずれば人を制す』
誰の言葉だったかも忘れたが、これが真実だとの思い込みは、結構潜在意識に大きく影響しているかもしれない。現代は情報の早さがこの言葉に当てはめられ、人々の潜在意識にもぐりこんでいるような気がする。この潜在意識に働きかけ、ただかけっこの順番が早い遅い程度のノリで人を制した気分になる事を煽るのは、マスコミの情報をありがたがらせる手段なのかもしれない。その情報の真偽など二の次で、風評被害が拡大するのはそんなメカニズムが働いているのではないか・・。
私は弁当屋の売れ行きから考えがずいぶんスピンオフした事に気が付き、自分で呆れていた。だから弁当屋に入るなりその娘が笑顔で元気にかけてきた「こんにちは、いらっしゃい!」の言葉に驚いた顔をして固まってしまった。
「どうかしたの?」
彼女がちょっと真顔で私の顔をじっと見つめた。くるくると動く大きな目にすこし膨らんだ下まぶたが、笑顔が始まる寸前のようなかわいらしさがあった。その感覚は私の胸の中の何かを熱くした。私は彼女の魅力が少し判った気がした。彼女はきっと心にいつでも笑う準備が出来ているのだ。社会的な動物である人間は、他人の行動に無意識に合わせようとする。あくびがうつったり、会話の途中で飲み物を同時に飲んだりするのはその表れだという。意識できない見えない部分の感情にも同じ事があるのではないだろうか。いつも心に笑顔がある人が傍にいると、自然と心に笑顔がうつり、楽しい気分になるかもしれない。逆にいつも不安や怒りを心に持つ人が傍にいると、居心地の悪い不安な気持ちになるかもしれない。それを外に表していなくても・・。
「・・あ、いや、可愛い子がいるなと思って・・。」
彼女は一瞬悲しそうな表情したが、すぐにをけらけらと笑い「いやだーもう。初めて見るみたいに。」と言いながら手で口を押さえ、私を見ながらまた笑った。そして彼女は口を押さえていた手をおろし、私を真っすぐに笑顔で見つめたまま、ちょっと首をかしげて聞いた。
「いつものしゃけ弁当で良いですか?」
「はい。2つお願いします。」
若い娘に面と向かって可愛いだなんて。私は人生で初めて軽口をきいた気がする。いや、あったかもしれないが、そう何回も無いかも知れない。いやまて、これは軽口では無い。咄嗟に感じた事が素直に口に出ただけだ。
(素直って照れくさいのか。なんだ?このこそばゆい感じは。)
私はその感じがもう一度味わいたくて弁当を詰めている彼女にまた何か軽口を言おうとした。
「・・・」
言葉が何も思いつかなかった。
彼女は誰かに似ている。この胸に湧き上がる酸っぱいような甘いような感覚は、遠い昔に味わった事があるような気がした。昔好きだった誰かに似ているのかもしれない。
「はい、お待たせしました。560円です。」
そう言いながら彼女はまた一瞬悲しそうな表情をした後、満面の笑みでレジ袋に入った弁当を差し出した。私は代金と交換に受け取り際、何か言おうと思ったのだが言葉が出てこなかった。「ありがとうございました~。」という明るい声を背中に浴びながら私は店を出た。彼女の一瞬の悲しそうな表情は、不自然にゆがんだ笑みを彼女に残してしまったせいではないかと少し後悔した。
いつもなら散歩ついでに買い物に出たのだから、若芽が色付き始めた木々の枝など見ながらのんびり帰るのだが、なぜか景色も目に入らず、速足で家まで歩いている自分に気がついた。家に着くと、玄関の戸をあけながら自分の歳と職業が無い事を思い出した。
(全く。いい歳して何やってんだか。自分ではまだ若いつもりでいやがる。)
親父は相変わらず椅子にもたれてじっと動かなかった。陽が傾いた縁側が、すこし薄暗くなり始めていた。
「ただいま。しゃけ弁買って来た。俺は今食って出かけるけど、親父はどうする?今食うか?」
部屋の電気を点けながら背中を向けている親父に声をかけたが、やはりじっと動かなかった。すこし不安になった。
私は弁当をちゃぶ台に置くと、親父の顔を覗き込んだ。
「親父・・。」
良く寝ているのか動かない。
息をしているか確かめようと顔を近づけた時、小さい声で親父が言った。
「おまえ最近オヤジ臭いぞ。」
俺は勢いよく上体を起こしてのけぞったので、少し背中がつりそうになった。
「親父!脅かすのは無しにしてくれ!こっちだって体も心臓も半世紀以上こき使ってんだ。ポンコツ寸前なんだから少しは気をつかってくれ!」
「な~に驚いてんだ。まだ死にゃあしないよ。」
「だったら返事ぐらいしてくれよ。聞こえてたんだろ?」
「俺はあとで食べる。さっさと食って行っちまいな。」
なんなんだこの親父は。喧嘩売ってるのかとも思ったが、日がな一日する事もなく、また出来る事もなく過ごす日々がどんなものか、なんとなく私にもわかる気がしたから、何も言わなかった。だが、親父がもし、弁当屋のあの娘みたいに心に笑う準備がいつでもしているようだったら、私はどんなに楽だったろう。どんな事も頑張って乗り越えてゆけたような気がした。私はまだほの温かい弁当の蓋をあけながら、少し情けない気分になって来た。食べ始めると、何となくあの娘の笑顔を思い出した。暖かい飯でお腹が満たされて行くのと同時に、情けない気分は消えて行った。私は親父をふと思った。
(後で食べるのか・・。さめちゃったらせっかくあの娘が良い笑顔で詰めた弁当のうまさが半減するなぁ。)
私は急いで発砲スチロールの弁当容器からいつも自炊の弁当で使う保温の弁当箱に中身を移した。
(このほうが少しはさめないだろう。)
私は出がけに弁当は弁当箱に移してあるからと声をかけた。いつも向こうを向いている親父が珍しくこちらを不思議そうに向き直った。私はついでににこにこと手を振り、「行ってくる」と声をかけた。驚いたように上半身を起こした親父を後に家を出て、今夜だけのアルバイトがある夜勤仕事先へ向かった。一晩夜警として詰めるビル管理の事務所まで15分ほど歩くのだが、すっかり暗くなった街灯が灯る道で、スキップしたくなる衝動に駆られた。その気持ちを抑えながら歩くと、頭の中でエモーションズの“ユーブガッタベストオブマイラブ”が鳴り出した。今度は歩いている途中でターンを入れたくなるのを必死で押さえなければならなかった。こんなに心がウキウキしたのは何年ぶりだろう。
(あのしゃけ弁、何かそういった物が仕込んであるんじゃないだろうか。・・はは、まさかね。)
あの娘の笑顔が浮かんだ。
(いやいや、こんな年代物のジョークは若い娘には絶対受けないにきまってる。)
それでもあの娘の笑い声が頭に響いた。この幸せな気分は一体どういうことなのだろうか。
翌朝、徹夜の重い頭が前へ落ちてしまわないようにゆっくりと、早出のサラリーマンが早足で出勤を始めた流れに逆らって家へ向かっていた。昨日一晩中鳴り響いていたエモーションズの“ウォウォウ”というフレーズがすっかり消え去り、頭の中は食べ物と柔らかい枕の事でいっぱいになっていた。気持ちは30歳後半で止まっているのに、やはり体は正直だ。徹夜は堪える。家に帰って食事を作るのが面倒だった。何か買って帰ろうとも思ったが、昨日は弁当を買ったし、一晩働いたくらいで贅沢は言えなかった。親父も私が帰って来て朝飯に何か作るのを待っているだろう。陰気な親父の姿を思い浮かべると、余計憂鬱な気分になった。
「ただいまー・・。」
私は気分と同じくらい重い玄関の引き戸を開け、可愛く明るい声で「お帰りーっ!」と言ってくれる誰かが居るはずもいない家へ帰ってきた。玄関に入り、しばらくぼーっとしてそんな事を考えていた。
「お帰り。」
想像したような可愛く明るい声ではなかったが、玄関から居間に入ると、その奥の台所から親父が声をかけてきた。
「な、何してんだ・・。」
私は居間に一歩はいるなり、驚いて突っ立ったまま最近物がぼやけて老眼に乱視まで被ってきた目をこすった。
「な~にが『何してんだ』だ。朝飯作ってるに決まってるだろ。もうすぐ出来るから手を洗って来い。上着脱いで鞄置いてからにしろよ。お前横着だからいっつもそのまま手ぇ濡らすだけでまたその汚ねぇ鞄と上着に触っちゃうから。」
やけに明るく、昔みたいな言い回しで親父が包丁を動かしていた。居間のちゃぶ台には茹でたホウレン草と納豆、目玉焼きが置いてあった。私は台所の横の洗面所で手を洗いながら、久しぶりにずっと長い間暮らしの中にあった、音とか匂い等がごちゃまぜになった景色と、いつもの暮らしのリズムが戻ってきたように思った。さすがに少し危なっかしい立ち方の親父の背中は昔と違うのだが、なんだかさっきまでの重い頭が晴れ、これから出勤や通学するという朝の緊張感が蘇って来た。私はやはりいつもそうだったようにテレビをつけた。いつもNHKが時計代わりだったし、天気予報は今日着る物を選んでくれた。
「もうみそ汁が出来るから飯よそってくれ。」
親父の聞きなれた台詞が台所から聞こえた。テレビが8時と同時に聞きなれたニュースのテーマが始まった。私は飯碗にごはんをよそうと、親父と自分の箸を茶ダンスの箸立てから出して目玉焼きの皿にのせ、飯碗を置いた。親父が味噌汁の両手鍋を持って来て鍋敷きの上に置き、蓋をあけてお椀によそいだ。味噌の良い香りがした。
「いただきます!」
私は子供の時のように明るい声をだした。親父はやはり昔のように「うん。」とうなずくと、「いただきます。」と小さな声で言って味噌汁をすすった。
二人の周りには、本当にいつもの見慣れた時間が戻って来たかのようだった。テレビのニュースを見ながら景気がどうのとか、物騒な世の中になったとか言いながらいつも出掛ける時間の8時30分まで忙しく飯を食べた。いつもなら8時20分がすぎ、朝のドラマがなんとなく佳境に入るあたりでどちらも食べ終わり、先にトイレに入られた方が茶碗を台所へ片付ける役目だった。だが、今日はどちらも食べ終わるとぼーっとテレビを見続けた。もちろん8時30分になっても出掛ける訳じゃないから、そのままいつもなら見なかった8時30分からのニュースを見て、時間が過ぎて行った。より自分の今の立場が昔とは違ってしまった状況を鮮明に際立たせたような倦怠感があった。
「なあ、なんで朝飯作ってくれたんだ?」
私はまた椅子に戻ってしまった親父に話しかけた。
「お前は俺の子だからな。育ててやらにゃならんかった。」
親父はまた向こうを向いたままきっぱりと言った。
「いや、そうじゃなくて。今までって事じゃなくて。今日だよ。親父が定年してしばらくして、そうやって落ち込んでからは俺が作ってたじゃないか。今日はどうしたんだ?なんかあったか?」
私はちゃぶ台の食器を片づけながら聞いた。
「なんだ。まずかったか?」
「いや、そうじゃなくて。いつもの親父の飯だ。まずいわけがない。何だか仕事していた頃に戻ったようじゃなかった?」
「そんな事は無い。」
親父は腕を上げて手の平でパシッっと腰を叩き、その手で腰を掻いた。「だけど時計見ながら食べてたじゃないか。時間気にする必要なんかないだろ?今は。」
「ただの癖だ。気にしすぎだ。」
「・・・そうは思えないんだけどな・・。」
最後は私の独り言のようになった会話は、それきり続かなかった。食器を洗い、居間に戻ると眠気が突然襲ってきた。無理も無い。夜勤明けなのだ。そのまま座布団を枕に横になった。
強烈に腹が減った感覚に起こされた。なんだか若い頃の夢ばかり見たような気がするのだが、さっぱり覚えていなかった。思い出そうとすると、余計に頭に少し残っていた雰囲気まで消えていった。ちゃぶ台の前に座り、ぼーっとしていると、腹が鳴った。ふと見ると椅子に親父がいない。
「あれ?何処行っちゃったんだ?」
外は陽が傾を増し、薄い黄色からオレンジに変わり始めた日差しが縁側を照らしていた。
「親父どうしたんだろ。何処行ったんだ・・。」
私は家の中を少し探した。親父は何処にもいなかった。
「もしかして、公民館でも行ったかな。俺が薦めたからな。」
とにかく腹が減ってめまいがしそうだったので、何か食べようと思った。あの弁当屋が浮かんだ。
(親父はどうするかな?弁当屋の帰りに、公民館覗いてみるか。)
とにかく私は水を一杯飲んで空腹を紛らわそうとしてお湯を沸かした。お湯が沸いて火を止めた私はなんだかぼーっとしてしまった。
「何やってんだ?俺は。」
ちょっと自分にあきれた私はとにかく水を飲み、あの弁当屋へ出かけることにした。
弁当屋に近づくと、いつもと様子が違っていた。
(あれ?なんだ今日は休みか・・・。参ったな。)
電気の消えた弁当屋のガラス戸には『本日休業』の張り紙がしてあった。
(仕方がない。スーパーで買い物をして何か作るか・・。)
出がけに水を飲みすぎたせいか、空腹感が無くなっていた。少し時間がかかっても何か作った方がよさそうだった。
駅前のスーパーはちょうど夕飯の買い物客で込み始める時間の少し前で、まだ客はまばらだったが食材や惣菜は豊富に並べてあった。普段ならスーパーには閉店時間近くに来て、値段の下がった物を少しだけ買うようにしていた。安く買える食材や惣菜は、賞味期限ぎりぎりだったり、長い事保存して置けない物が多かったので、買い溜めができない。だから安売りの物は出来るだけすぐに食べてしまえる物を少しだけ買うようにしていた。私はいつもの癖で値段の下がったものを探した。買い物時間寸前のこの時間にそういったものがあるはずも無かった。私はしょうが焼きでも作ろうと思い、何を買うべきか考えた。
(しまった・・。冷蔵庫に何が残っているか見てくるんだった・・。)
まだある食材を重ねて買ってしまう無駄は何度も犯している。人間がいかに経験を次に生かすことが難しいか、袋の中で泥けてしまった長ネギの異臭に耐えながら思い知ったりするのである。
(惣菜を買って帰る方が良いか・・。)
惣菜コーナーに積み上げられたポリスチレン容器に入った揚げ物や天ぷらを見ていると、ぶら下げた買い物かごに衝撃をうけ、思わずよろけて仰向けに倒れ、後頭部を打った。それでも体を庇って受身のように手をついたので、若いころのようには行かなかったが後頭部の衝撃は思ったほどでは無かったはずだ。だが大きな音がしたようで、結構な人が集まってきたようだった。天井の蛍光灯を見つめていた私の視界に大勢の顔がのぞき込み、一番近くに弁当屋の娘の泣きそうな顔が入って来た。
「大丈夫?どうしよう・・。私がぶつかっちゃったの・・。大丈夫!?」
私の肩を持ってゆすっているようだ。私は意識ははっきりしていたつもりだが、どうやらぼうーっとしてしまっていたようだ。彼女にゆすられてはっと我に返り、慌てて上半身を起こした。
「あ、いや、大丈夫、大丈夫。」
彼女は半泣きの顔で私の両肩を支えていた。あまりにも近くに悲しそうな彼女の顔があり、私は胸が締め付けられるような苦しさを覚えた。
「ごめんなさい、ごめんなさい!」
私をあのくるくる動く目でまっすぐ見つめ、悲しい顔で訴える彼女が哀れになり、結果的に彼女をそんな目にあわせた自分が嫌になって来た。
「気にしないで。大丈夫だから。じじいは足元が弱くてね。心配しないで。大丈夫だから。」
私はやさしくそういうと両肩に置かれた彼女の手をそっと下ろした。
「どうしました?大丈夫ですか?救急車呼びますか?」
スーパーのロゴが入ったジャンパーを着た、店長と書かれた名札を付けた白髪の男が声をかけて来た。
「いやいや大丈夫。いや、お恥ずかしい。ちょっと運動神経が歳とっちゃったこと忘れててね。いや、お騒がせしてすみません。」
私はそう言いながら立ちあがった。彼女は私が立ち上がる間中、心配そうな表情で私を見つめながら手を添えていてくれた。
「いや、それなら良いんですが・・。お気をつけてください。」
店長は私と、私の袖をまだ掴んでいる彼女に軽く会釈をして立ち去って行った。他の買い物客もみな何事も無かったかのように買い物に戻って行った。まだ私の袖を持ちながら眉を八の字にし、大きな目で私を見つめる彼女に私は笑いかけながら言った。
「あなたはお弁当屋さんの娘さん。ご心配おかけしました。もう大丈夫ですよ。」
私は彼女がつかんでいる手を反対の手でそっと外した。彼女は手を外された事を拗ねたような表情で外した私の手を見つめ、また私を見つめた。この子の瞳はくるくると良く動くし、表情が豊かだった。愛くるしいという言葉が浮かんだ。
「サエコです。」
彼女は少し怒ったように頬を膨らませて言った。
「え・・?ああ、サエコさん。そう。サエコさんね。」
もちろん名前を聞いたのは初めてだったが、私が常連客の一人だから、彼女は名前を言った事があると勘違いしているかも知れなかったので、それに合わせる事にした。
「私は名乗ったっけ?尾島権蔵です。古い名前でしょ?親父は・・。」
「尾島雄一。私のほうが親父みたいな名前だ。・・でしょ?」
彼女はまた一瞬悲しそうな表情をしてすぐ、少し野太い声でおどけた様に私の口真似をした。私が良く使う自己紹介のフレーズだった。やっぱり何処かで名前を紹介しあったんだろうか。いや、こんな可愛い娘さんと名前を言い合う知り合いになったら、忘れるはずがない。きっと彼女が何処かで私のフレーズを聞いていたに違いない。そうだ、お弁当屋のおばさんの方だ!あれ?おばさんはどんな顔だったろうか・・。まあいい。きっと私がそのフレーズでおばさんに自分の名前を言ったのを聞いていたに違いない。そういえばおばさんには父と二人暮らしだと話した気がする。はっきりとは覚えていないが・・。
「良くご存じで。じじいの権蔵です。」
私はなぜ彼女が私の名前とその紹介ジョークを知っていたか、少し説明がついて安心し、おどけた口調で言ってみた。彼女がまた眉を八の字にした。
「だめでしょ。自分の事じじいとか言っちゃ。人間は気持ちから歳を取るのよ。」
まだ二十歳そこそこだろう若い子にこんな諭され方をするなんて、余計に歳を感じてしまった。後は照れ笑いをするしかない。
「いや、まいったな。はっははは。さて、男やもめの買い物に戻りますか。えっと・・サエコさん?も夕食の買い物かな?」
「・・ええ。今日は何にするの?お夕食。もし良かったら私に作らせて。さっきのお詫び。」
私は彼女がごく普通に申し出たその事が、今の若い娘は男所帯と知っていてもこんな申し出をするものかと、ちょっと驚き、また私を嫌っていないらしい事にも胸がどきりとした。
「いや、悪いよ。さっきのはぼうっとしていた私が悪いんだし、若いきれいな娘さんが男所帯に来ちゃぁいかんよ。」
彼女は一瞬悲しそうな表情をしたが、すぐに笑顔で言った。
「まあ・・大丈夫よ。・・しょうが焼とかどう?結構得意なのよ。」
私が作ろうかとも思ったメニューが彼女の口から出て、偶然なのも知れないが何だかとてもうれしかった。
「ああ、生姜焼き大好きなんですよ。・・でもねぇ。」
「いいからいいから。」
ためらう私の後ろに回って、彼女は笑いながら私の背中を精肉コーナーまで押して行った。まるで若い恋人達のようにふざけあっているみたいだと感じたのは、私だけかもしれないが・・。
家に着くと居間のちゃぶ台にはカップめん等の食べ跡のカップや箸がそのまま置いてあった。
「しょうがないな~。親父のやつ。また何処かでかけちゃったのか?」
私が独り言を言いながら居間を片づけている間、サエコは勝手知っているように台所で買ってきた食材を冷蔵庫にしまい必要な分取り分けて、料理を始めた。私は横目でその様子を見て感心する事しきりだった。この娘は若いのに家事の感があるらしく、初めての台所なのに、どこに何がしまってあるか分かるらしかった。てきぱきと食材の下ごしらえを始めた。私は腹が減っているはずなのに、さっき片づけたカップめんの匂いが鼻について少し気分が悪かった。ちゃぶ台の前に座って台所のサエコに声をかけた。
「サエコさん、悪いねぇ。」
そう言うと少しげっぷが上がって来た。カップめんの匂いがした。サエコが遠くで何か叫ぶ声が聞こえたが、そのまま何も分からなくなった。
何か男性と女性が喋る言葉が遠くから聞こえてきた。良く意味が捕えられない。
(私はどうしたんだろう・・。ここは・・病院か?)
私は目を開けて白い天井から下がるカーテンとカーテンレールを見つめた。
「権蔵さん?気が付きましたか?大丈夫ですか?気分が悪くないですか?」
背の低い、小太りの女性看護師が私を覗き込んで声をかけてきた。
「ああ、大丈夫です。・・少し体を起こしても良いですか?」
「ええ、よいですよ。」
看護師は私が上半身起こす事を手伝ってくれ、背中に枕を押しあてて支えを作ってくれた。「シャッ」とカーテンが開いて白衣の医者とサエコが入って来た。サエコは目にいっぱい涙をためて、何かに耐えているように、両手を硬く結び、八の字の眉で私を見つめた。
(ああ!そうか。この娘は・・。)
私は胸にこみ上げてくるものに流されて叫びたい衝動を必死で抑え、ゆっくり名前を呼んだ。
「サエコ・・。」
サエコの顔が突然、壁が崩れるようにくしゃくしゃになった。
「お父さん!!」
サエコは上半身起こした私にしがみついて泣いた。そうだ、私の一人娘のサエコだ。思い出した。いや、思い出したというより、意識が戻ったという方が良いかもしれない。そう、戻ってきたのだ。意識のある、ちゃんと過去と現在が正しく・・恐らく正しく繋がっている世界に。
「サエコ!・・サエコ。」
私はやっと引き離されていた娘と再会出来たと感じた。最後に会ったのはいつだったか思い出せない自分を歯がゆく思いながら、サエコの肩を抱いた。
サエコは10年前に別れた女房と私の家の近くで弁当屋をやっている。私にぼけが始まった事を知って時々家事を手伝いに来てくれていた。親父が3年前に死んで、そんな時、私のまだらぼけが始まった。経済的には親父の保険金があるから何とかなるとは言え、サエコはまだらにボケが始まった男一人の暮らしが心配なのだ。私は自分の境遇をこの医者から説明を受けたが、すぐまた忘れてしまう。何かの拍子に、ほんのちょっとの間だけ元の自分に戻ったように思い出すのだが・・。ぼけている期間はまるで夢の中で別の人生を送っているようだった。こうして今がはっきりすると、ぼけている間の出来事はやっぱり夢のようにほとんど忘れてしまう。
サエコは声を上げて泣いていた。私は胸が張り裂けそうだった。大切に思えば思うほど、忘れたくないと思えば思うほど、遠くて手の届かない物を求めるような虚しさが襲ってくる。こんなに愛しているのに、しばらくすればそれすら忘れてしまうのだ・・。
「サエコ・・。ごめんな。ごめんな・・。お前には我慢ばかりさせて・・。ごめんな。」
私はサエコの嗚咽で震える背中をさすった。今だけ、脳がまた私ではない他人になってしまう前に、心の深いところに覚えておきたかった。この子は人一倍やさしいから、私の態度にどれだけ傷ついているだろう。それを思うと居てもたっても居られなかった。
「・・・いいの。お父さん、いつも優しいよ。すっごく良くしてくれるよ。いっつもうれしいよ・・。別のお父さんも、すっごく優しいよ・・。だから大丈夫だよ・・。お父さんはお父さんだもの。・・でも、でも、本当はいつも私を覚えているお父さんにこうしてあいたいよぉ・・。」
そう言うとサエコはまた子供のように泣きじゃくった。私も声を上げて泣いた。またすぐに他人になってしまう世界へ私は行ってしまうだろう。彼女とは縁のない、違う意世界が私の周りにまた降りてくる時がやってくるだろう。その時までずっと抱きしめていよう。この子には、本当の私を忘れてほしくないから。
おわり