3日間だけ神にしてやろう
2011年

一人暮らしの狭い部屋に、明けたばかりの薄い紫色をした光が射してきた。私は目を開けてまた新しい日がやってきた事を知った。

「朝が来たのか・・・。」

私は気分が悪くなり、だるくて動くのもつらい体を引きずるようにして便所へ行き、便器に突っ伏すようにして吐いた。私の嘔吐物には大量に飲んだ睡眠薬の錠剤がつぶのままあった。

「やはり市販の睡眠薬では死ねないのか・・。」

私はベッドに戻り、どうしようもない気分に加わったどうしようもない体調の悪さに耐えなければならなかった。死ねない上にさらに苦しい思いをする事になった自分の馬鹿さ加減は、もはや死への漠然とした思いさえ叶えられないほど度を越しているのではないかと思えた。私は朦朧としながらも、癇癪を起した子供のように歯噛みしてうなっていた。

「俊雄・・・。俊雄・・。」

私を呼ぶ声がベットサイドから響いた。私は驚いて声の方を見た。白い布をまとい、長くて白い髭を生やし、長い杖を持った老人が立っていた。

「・・誰?なんで私の部屋にいるんだ・・。」

私はだるくて動かない体の身をよじった。大きな声で威嚇したかったが、かすれて震える情けない声しか出なかった。だが、不思議と恐怖心は無かった。

「お前が望んだから来たのだ。」

男は言いながら両手を広げた。

(?誰?私が呼んだ?・・まさか・・。)

「・・神・・様?」

「私は神の使いだ。お前は求めた。だからこうして来た。」

死のうと決心して薬を買いまわった。その途中でなんとなく通りすがった古い教会へ入った。割といつも通る道のはずだったが、なぜか初めて見る建物だった。蔦がはった壁の先には、緑青を吹いた急な三角屋根が続き、十字の交差部が環で囲まれたケルト十字がその屋根の先端に、空をバックにして黒いシルエットを作っていた。教会といったらこんな形だろうというような建物だった。大きな重いドアを開けると、私と一緒にドアの隙間から入った光が、正面の祭壇にある神の像を照らした。

祭壇の前に座り、私はしばらく自分の状況を考えた。事故で家族を一度に失った悲しみ。もう二十年も前になるが、そのときは神を恨んだ。最後まで頑張っていた娘が死んだときは、あれだけ助けを求めたのに何もしてくれない神に、自ら悪魔になって復讐してやりたいとさえ思った。だが一人でこの悲しみを抱えて生きる苦しい毎日を過ごすのに精一杯で、そんな事を思う事さえ忘れてここまで来た。事故後は仕事も辞め、事故の相手が全財産を費やして支払った保険金で、しばらく廃人のような暮らしをしていた。しかし忘れようと豪遊したり、無駄金を使ってもみたが忘れられす、その金も尽きた頃、仕事をすれば少しは苦しみが和らぐかもしれないと、また勤めた先ではがむしゃらに働いた。だが心にある悲しみは他人を遠ざけ、開かれない心を持ちながら生きている私には、昇進も栄達も縁がなかった。

どのみちこんなに長生きするはずじゃなかったのだ。だが神よ、私をここまで生かした理由は何だったのだ。散々助けを求めても、あたかも居ないかの如く沈黙する神よ。あなたは何の為に存在しているのか・・?もしや存在すらしていないのか・・・。

「もうどちらでもよい・・。ただあの世があるなら、そこで引き離された私の家族とやっと会えるはずだ・・。やっとな・・。」

私は祭壇にむかって一人言ちた。それを思い出した。

「あの時、あの祭壇にいた神なのか?」

「神はあまねく存在する。何処に居たと言うのは正しい認識ではない。」

「どう言う事だ。助けを呼んだって来たためしがないのに、呼んでもいない時に何の用なんだ・・。そうか、私の死に際を確かめに来たのだな?」

「それは死神の仕事だ。神の仕事ではない。」

「え?分業なのか?唯一神ではないのか?」

「もちろん死神も神の一面だ。だが今ではない。」

「ややこしいな・・。まあ、今となってはどうでも良い・・。いや、もしかしたら願いを叶えてやろうとか言うつもりなのか?」

神の使いと称するその老人はすこし笑みを浮かべていった。

「お前に神のことを教えに来た。」

「私にいまさら神の何を知れと・・。まさか言い訳に来たわけじゃないだろうな?それなら家族に会わせてくれ。あなたが二十年前に奪った私の家族だ。」

私はベッドから少し興奮して身を起こした。さっきとは違って、意外と体は軽かった。

「俊雄、お前を3日だけ神の使いにしてやろう。神と同じ万能の力が得られる。」

「そうすれば家族にあえるんだな?」

「望めば昔に戻る事も出来る。」

私はいろめきたった。それなら時間をさかのぼって、家族を私の元に戻せるではないか。

「本当か!じゃあ事故の前に戻ってやり直せるんだな?ありがたい。そうなれば3日もいらない。1度でいい!」

私は神の使いの方を向いてベッドに正座し、手をあわせてお願いした。我ながら今まで散々助けに来ないだの、悪魔になって復讐するだの言っていた文句を棚に上げて、現金な奴だと自分でも少し恥ずかしく思ったが、家族を取り戻せるならこの際水に流してもらおう。何しろ家族がそんな目にあったことが原因なのだから。

「ただし、俊雄、一つ条件がある。」

私は神の使いの顔を見上げ、「?条件?」と言いながら阿呆のような顔をして言葉を待った。

「神が創りしこの世界にはこの世界を保つ為の法則がある。万物はその法則の上に成り立っている。神もその法則の上で初めてこの世界で万能となる。その法則を守らなければならない。」

「神も守らなきゃならないってことか?」

「そうだ。神でも法則を破って意思を働けば、もはやこの世界はこの世界では無くなる。それでは意味がない。」

「ああ、この世界の秩序を保つ為の法則ね。なるほどね。で、どんな法則なの?」

「法則はただ一つ。『エネルギーは保存されている』。」

神の使いはきっぱりと言った。聞いたことがある。確か物理学の第一法則だったような気がする。この世界のエネルギー総量は一定だというような事だった。

「え?それだけ?だって当たり前にこの世界にある法則でしょ?問題ないじゃない。大丈夫。わかりました。守ります。約束します。」

神の使いは目を閉じ、何かぶつぶつと言い始めた。

「ここにいます人間は、今神との約束を交わし、神の時間で3日だけ神と同じ万能を与えます。彼に祝福を・・。」

神の使いが手を前に差し出し、人差し指で私の額に触れた。その途端光輝いた景色が私の脳裏に入り込み、体が滑るようになめらかに動く精密な機械のように働いていることを感じた。今まで感じたことのない気持ちよさと安心感だった。その気持ちよさに気分はとても晴れやかになり、ウキウキと楽しい思いが湧いてきて、笑いが自然と込み上げてきた。

目の前から老人は消え、私は一人ベッドの上でくすくす笑っていた。

「そうだ。こうしてられない。家族の元へもどらなきゃ。・・えっと、どうすればいいんだ?」

私はやり方を教わっていない事に気がついた。その時、心の中で声がした。

(思え。望め。さらば与えられん。ただし神の力は思った先の未来を、まず汝に見せるだろう。未来の予言を先に見せるだろう。)

「なるほど。思ったことが起きたとき、その先に何が起こるか見れるわけだ。プレビューってやつだな。そいつは便利だね。神は失敗しない訳だ。」

私はベッドに横になり、あの日、父母、妻、長男と娘の6人、ランドクルーザーで出掛けて事故を起こした前日に戻れと念じた・・。

「お父さん、食事が出来たわよ。こんな所でうたたねしたら、風邪ひきますよ。ほら、あんたも起きなさい。」

妻がソファーを背にテレビのリモコンを持ったままうとうとしていた私を起こした。ソファーに寝ていた息子が大きくあくびをしながら伸びをした。その足元にいた私に足がぶつかった。

「あ、おやじごめん・・・。あれ?泣いてんのか?え?なに、なに。そんなに痛かった?ごめんごめん。大丈夫?」

私は久しぶりに会った息子を抱きしめた。

「な、なんだよ親父!夢でも見たのか?ど、どうしたんだよ!」

私は構わず次々と家族に抱きついた。

「やめてー!変態!おばあちゃん助けて!」

15歳になる娘は笑いながら抵抗した。久しぶりに家族で笑いあった。いや、久しぶりじゃなく、これが日常だった。

「明日、車で出かけるのをやめようと思う。電車で行こうと思う。」

食卓で私はにこにこしながら言った。

「えーっ!何でよー。」

皆不平を並べたが、私は取り合わなかった。

「列車の旅はいいぞ。ロマンスカーとか、景色が最高だ。運転手も疲れないし。」

「だっておじいちゃんとか足が大変じゃない。」

この娘はいつも最後まで頑張る。私はふと生命維持装置につながれて、計器だけが死に抵抗している娘を表していた事を思いだし、胸が熱くなった。だが、それは思う事により、望んだ事になってしまうのではと、慌てて心で打ち消した。

『今のは取消。思い出からも消えてくれ。』

「私なら大丈夫だ。列車の旅もいいもんだ。」

私の父が、禿げ上がった頭を撫でながら孫娘を諭すように言った。

「じゃ、決まりだな。あすは電車で。」

私はこれであの事故を避けられる事に喜んだ。家族を守れる。妻は何も言わなかったが、何か怪訝そうだった。

「何かあったの?」

寝室で妻が聞いた。

「いや、別に何もない。」

私は喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。事故や神の事を言って、信じろと言う方がどうかしていると思った。

翌朝から、私たちは楽しく1泊旅行を楽しみ、何事も無く家に帰ってきた。これで私も事故のある人生は夢だったと思えるようになるだろう。神に感謝しなければならない。いや、私が神だった。まだあと1日、万能の力は残っているのだろうか?こうやって時間を遡ったら、3日の約束はどう計算するのだろう?私は試して見たくなった。

「良いことに使えば問題なかろう。」

そう思った私は、何か誰かの役に立つ事がしたくなった。

(そうだ、同僚の三枝、娘の目が不自由だったな。思えば治るだろうか・・。会ったことも無いが・・。やってみるか。)

私は「三枝の娘の目が治る」と願った。

私は次に新聞を眺めた。中東のある国で起きている戦争を止めるように願った。

電話が鳴った。三枝だった。

「矢口さん!大変なことが起きた!奇跡だ!奇跡なんだ!娘の、娘の目が突然見えるようになったんだ!嬉しくて嬉しくて誰かに伝えたくて電話してしまった!すいません。でも、凄いんだ。奇跡なんです!」

私は電話の向の三枝が、涙声で喜ぶ声にただただ「よかったね。」を繰り返していた。

翌朝の新聞の第一面には、『中東で停戦合意』と大きな見出しが載った。

「矢口さん・・矢口さん!」

「え?」

私は会社の倉庫でいつものように作業着を着て書類整理をしていた。三枝が来て、段ボールを眺めてぼうっとしていた私に、持ってきた書類の束を重そうに抱えながら声をかけた。

「大丈夫ですか・・?」

「・・すまん、すまん。ぼーっとしていた。・・あ、それ整理分だね?そこに置いといて。」

三枝は作業台に書類を下ろすと、私に何か言いたそうな顔をして、書架のスチール棚にもたれかかった。

「どうした?何かあったか。」

私は三枝が持ってきた書類の荷を解きながら聞いた。三枝は笑い顔とも悲しい顔ともつかない、不思議な顔をして言った。

「実は、矢口さん知ってたと思うけど、娘の洋子、2歳の時の病気が元で、失明したんだ。」

私は作業の手を止めて聞いた。

「ああ、この間電話をくれたろう?それが奇跡的に治ったんだね。良かったじゃないか。」

三枝は腕組みをしてため息をついた。

「そうなんだ。ほんとに良かったんだ。もうどうして良いかわからないぐらい喜んだ。嬉しかった。」

「なんだ。どうした。それで良かったんじゃないのか?なんでそんなに暗い顔をしているんだ。」

私は作業用の軍手を脱ぎ、そばにあったパイプ椅子を2つ広げた。

「まあ座れ。何があった。」

私は三枝にパイプ椅子をすすめた。三枝は少しうつむいて腕組みしたまま座り、腕組みを解いて顔をパンパンと2回手の平で叩いた。

「目が見えるようになって、まず洋子も泣いて喜んだ。だが、鏡を見て今度は泣きながら怒り出した。自分の顔が、想像していたものとは大きく違っていたらしい。年頃の娘というのはそういうものなのか・・。良くわからないのだが、私と母親の顔がいけないと言って泣くんだ。学校でも友達だと思っていた子たちの態度にいちいち傷ついてくるんだ。見えなかった物が見えるようにったらしい。通っていた病院でも、奇跡は話題の的で、入れ替わり立ち代りいろいろな権威と呼ばれる先生方に、診察と称してモルモットのように扱われていると言うんだ。そんなストレスもあってか、この間の化学の実験の授業中、誤って塩酸を一番仲の良かった友人の目にかけてしまった。友人は失明したよ。今、家と学校と教育委員会がその子の家族から訴えられているんだ。矢口さん!一体神様は何がしたかったんだ!どうしてこうなったんだ!」

彼は嗚咽して泣いた。私はショックを隠せなかった。何がしたかったか?三枝の娘の目を直したかっただけだ。確かに治った。だが、その先までは望んでいない。その先まで望んでいない?それがいけなかったか。先の先まで望んで、その人の人生が幸福のうちに終わるように仕組んで置くべきだったのか?いや、待てよ。その人が幸福かどうかはどうやって決めるんだ・・。それに、神が決めた人生?生きる意味とはなんだ。私は途方に暮れた。私は心の中で聞いてみた。神が答えてくれるかもしれない。

(私はどうすれば良かったのか。)

何も答えは来なかった。とにかく、現状から三枝を救わなければならない。それには三枝の娘の友人の目を治さなければならない。私はそうなるように強く思った。

翌朝早く、三枝から電話があった。

「矢口さん、驚きです。娘の友人、目が治ったんです。突然見えるように回復したって。本当に驚きです。火傷の跡さえ残ってないんですよ。本当に驚きです。でも、その娘の父親が心筋梗塞を起こして、今危篤なんだそうです・・。娘が失明したと思ったら跡形もなく治ってしまったり・・驚きと心労がかさなったんですかねぇ・・。」

三枝はなにか嬉しそうだった。私はまだ自分に万能の力が残っている事をしった。もう約束の3日はとっくに過ぎて、何日も経っているのに。神の時間とは今の時間と少し違うのか・・。

三枝は電話の最後に、小声で付け加えた。

「ここだけの話、先方の父親には可哀想ですけど、危篤になっちゃ訴訟も取り下げるしかないでしょう。家としては良い事になりました。神様に感謝です。」

私は人間にがっかりした。自分の不幸さえ無くなれば、他人の不幸など関係ないのだ。同時に私は三枝の友人の家族を思った。なんとかしてやるべきなのか・・。その時、私ははたと思った。(第一法則!不幸や幸福が平坦からプラスやマイナスに振れた状態だとしたら・・!どこかの不幸を取り除けば、穴埋めに別の何かに不幸がやって来るのでは無いのか!しまった!)私は新聞を広げ、つぶさに停戦後の中東の国の記事を探した。

「中東の変成麻疹、若年層を直撃」の記事があった。

「本格的な停戦に合意した中東各国は、武装解除と政治経済の立て直しを図ったが、戦争で決着のつかなかったイデオロギーの壁は厚く、それまで支援に回っていた大国が手を引き始めた。その影響で経済が困窮した各国では仕事もなく、政府がまともに存在しない国では支援も全く行えない状況が続いている。しかも、厄介なことに形だけの政府はボランティアさえ正当に受け入れられず、国民は困窮に喘いでいる。特に若者達の状況は酷く、今までは傭兵や志願兵などの兵士なら、まだ食べるものに有りつけていたが、武装解除でその道も閉ざされてしまっている。UNCLは援助を急務としているが、やはり大国の思惑にまともに動きが取れない中、疫病が流行りだした。麻疹の変成種のようだが、栄養状態が悪く、まだ予防手段を講じていないため、抵抗力の無い若年層を直撃している。WHOによれば、この変成麻疹のワクチンが開発されるまでに、中東の若者の犠牲者は、戦争の犠牲者を数で上回ると予測している。」

(なんということだ!なんという!私はなんと浅はかだったのだ!)

私は新聞の両端を握って皺くしゃにして、座っていたソファーから前にのめり、テーブルにその握った拳を突いて唸った。

「あなた!大変よ!茂樹が、茂樹が!」

救急病院の廊下は薄暗く、少し汚れたベンチのような椅子が4つ、廊下に沿って並べてあった。一番奥にある「処置室」と書かれた部屋にドアは無く、中から怒号のような医師たちの叫ぶ声が、運ばれた患者がいかに重篤か伝えていた。茂樹は処置室から一番遠いベンチに腰掛、両手を膝について顔を被っていた。

「茂樹・・。お前に怪我はないか?」

刺激はそのままの姿勢で小さく首を振った。

私は茂樹の前に突っ立ったままどう声を掛けようか迷っていた。妻は茂樹の横に座り肩をだき寄せ、顔を被っている両手ごと抱いた。

「大丈夫。あなたに怪我が無くて良かった。」

処置室でひときわ大きな声が飛び交ったと思うと、とぎれとぎれだった複数の電子音が一斉にロングトーンに変わった。茂樹が大声で泣き始めた。

18歳になってすぐ免許を取った茂樹は、私のランドクルーザーを運転するのが夢だった。この間の家族旅行で運転を代わってやったりするつもりだったが、列車に変えたので、その事は果たせなかった。代わりに遠くへ引っ越した友人宅へドライブがてら遊びに行くと出かけた先での事故だった。相手は軽自動車だった。5人乗りの軽自動車に、祖父母、兄妹、夫婦の6人が乗っていた。相手は乗車人数の違法だったが、センターラインをはみ出したのは茂樹の方だった。運転していたその家族の主人が重症で、ほかの5人は必死の治療も虚しく、次々と息を引き取った。

私は歯噛みした。私がここへ戻ってくる前に味わった不幸を、別の誰かが今背負った。そしてそんなことは思いもしなかったが、加害者にも家族が居て、今の私と同じ気持ちになっていたのだろう事を、今更思った。

(待てよ?まだ万能の力が残っている。そうだ!今のうちに元に戻そう!息子が出かけないようにすればいいんだ。そこへ戻れ!!)私は見境なく強く思った。

「父さん、行ってくるよ。」

茂樹が新聞を読む私に声をかけた。

「車はダメだぞ。今度ドライブに一緒に行ったらな。」

「わかってるよ。じゃあね。」

茂樹は明るく手を振ると部屋を出ていった。

(良かった。これで避けられただろう・・。)

私はそう思いながらもどこか不安だった。私はそれを振り払うように新聞を広げ直し、一面を見た。

「中東で局地的な核使用」

一面に大きな黒地の白抜き見出しがあった。

「・・・そんな・・。」

私は絶句した。その時、外で『ドン!』という大きな音がした。

妻が血相を変えて部屋飛び込んで来た。

「どうしようあなた!茂樹が!茂樹が!うちの前の道路ではねられた!」

私は新聞を両手でくしゃくしゃに丸め、それを床に投げつけて叫んだ!

「いい加減にしてくれ!どうしたらいいって言うんだ!」

私は体が急に重くなり、自分が見慣れたベッドに横になっている事に気がついた。

「私はそう言ったはずだ。エネルギーは保存されている。」

神の使いの老人があきれたように言った。

「今までのは・・。そうか・・プレビューだな?予言を見せたのか。こう望めばこうなると・・。どうりでいつまでも神の力が使えた訳だ・・。あんたはつまり何をしても無駄だという事を教えたかったんだな。」

「どう取ろうと汝の受け取り方だ。人間はその思いの中で神である。どう解釈し、思うか、その神が決めることだ。ただし、この物理世界では法則がある。その法則は守らねばならない。」

「・・法則・・。つまり私の不幸は誰かがそうなるエネルギーを起こす何かをしたからだと言うのか・・。何か外に悪いことをすれば、悪いことが戻ってくる。総量が0になるようにということなのか・・。」

私が再び重くなった体を起こした。部屋が明るくなり、羽のような、雪のような物が降ってきて、ベッドや床に落ちてすぐ消えた。神の使いの老人は両手を胸の前で結ぶと、その手にキスをして上目使いに天を仰いだ。

「この人間に祝福を。」

どうやら私の考えは正解だったらしい。

「わかりやすい祝福をありがとう。だが、誰がそんな不幸を呼ぶような事を・・。」

「お前は万能であることを忘れたか。」

「なるほど。知りたいと思うべきだと言うわけか。」

私はベッドに座り直し、背筋を伸ばして思った。私の今の不幸を呼んだ元を見せろと。

うっすらと火が灯ったガス灯の並ぶ道に、古い洋画でしか見た事の無いようなクラッシックな車が行き交う繁華街に私はいた。少し雪間まじりの天気はガス灯にちらちらと銀色の星を写した。私はガス灯の下に小さな木箱を置いてそれに座り、足置きを目の前に置いて客が靴を載せるのを待っていた。歩道の向こう側には大きなダンスホールがあり、多くの山高帽やスーツの紳士が出入りしていた。

至極高級な皮で出来たツートンの紐靴を足置きに載せた客は、片手に持って読んでいる新聞を下ろさなかったので、私からは顔が見えなかったが、仕立ての良いピンストライプのスラックスが、ダブルに折り返された中に見えた靴下には、錦糸でイニシャルが刺繍してあるような洒落を楽しむ余裕のある階級なのが見て取れた。ただ、ここに座って長いこと多くの紳士の靴を磨きながら自然に身につけた人物鑑定眼からすると、こういった輩は必ずしも上流だとは限らず、それを真似たヤクザ者も多かったので、一概に信用できなかった。案の定、反対の足を載せた時、スラックスの裾が上がってふくらはぎの横に仕込まれた小さな拳銃ホルダーが見えた。男は見ていた新聞をちょっとずらして足元を見、足を少し振ってまくれた裾を戻すと、見上げている私を見てウインクした。私は慌てて拭き布を振って靴磨きに没頭した。

「お待ち。」

私が磨き終わりを告げると、男は2銭銅貨を私に手渡し、口に人差し指を当ててにやりとした。その顔はどこかで見覚えのある顔だった。靴磨きは50厘と相場が決まっていたから、口止めのつもりなのか、2銭は破格だった。男は私がその顔の持ち主を思い出したと同時に、誰か女の声で「近藤さん、こっちこっち。」と呼ぶ声が聞こえた。男はそのダンスホールの入口にある大きな玄関屋根の下で、薄い水色のドレスを着た声の主を振り返ると、風のようにダンスホールへ入っていった。

「矢口 慎之介・・。」

私の祖父の名前だ。

(彼は確か貿易を手広くやっていた矢口財閥の御曹司だったはずだ・・。若くして曽祖父の会長が急逝した後を継ぎ、投資に失敗して破産したと・・。近藤って・・?)

私は嫌な予感がした。

(まさか・・。聞かされていた私の血筋の物語は嘘に満ちていたのでは・・。)

しばらくすると、大き高級車が2台そのホールの前に止まり、帽子を目深に被り、白い手袋をした運転手が後ろの席のドアを開け、御者が貴族を待つような風情で雇い主を待った。ホールから紋付と袴に山高帽と革のブーツを履いた恰幅の良い男と、さっきの水色のドレスの女、その後にうつむいて暗い雰囲気にそぐわない、総刺繍の着物を着た品の良い女性、それにさっきの「近藤」と呼ばれた男が出てきた。ドレスの女は赤んぼを抱き、意気揚々と紋付の後を歩いた。次々に車に乗り込む彼らを、ホールから沢山出てきた女給達が見送りをした。私の近くにも女給が立ち、彼女たちが話す小声の話は、私の頭の中にはっきりと聞こえた。

「あの近藤の女、色仕掛けの末、誰の子だかわからない赤ん坊を矢口会長の子供に仕立て上げたって。」

「それをあの近藤がネタにゆすったって噂だよ?」

「会長はそれであの二人を夫婦養子にして、自分の子・・かどうかわかんないけど、孫として育てるつもりらしいね。」

「あれじゃあ子供を亡くした本妻は可哀想だわ。」

「それだって彼奴らが殺したってもっぱらの噂だよ。ふん。いつか報いがくるわ。」

私は全てが見えた。神として今理解したのだ。近藤とその女は紛れも無く戸籍上私の祖父と祖母だ。そしてその子は私の父親なのだ。養子になった祖父と祖母は次々に矢口家を殺して行ったに違いない。祖父の思いはすでに人間ではない獣のそれで、祖母は娼婦そのものだった。祖母の男遍歴は半獣半人のようなキメラとして父を生んだ。他人の一家を殺して手に入れた財産も仕事も、身に付くはずも無く、父がまだ6才の時に矢口財閥は破産した。父は施設にあずけられ・・・ここからは聞いている通りなのだろう。私が生まれ、祖母と祖父が造った悪業は私で結実し、私と関わった家族を皆殺しにした・・。

「私なのか・・。」

私はベッドに腰掛けたまま、頭を抱え、神の使いに聞いた。

「隔世遺伝はこの世界の物理法則だ。必ず孫の人生で報いてもらう。良いことも悪いことも。」

「私はまだ神の力がある。あの近藤の計画を止めさればいいのだろ?」

「事はそう簡単じゃない。もし近藤の計画が無ければ、汝の父親は生まれていない。つまり汝も生まれない。」

「・・・そんな・・。」

「命の発生に関わる事象は、必ず命を持って報いなければならない。そしてそれは隔世する。これが法則だ。」

「ならば私ごと近藤も消えて無くしてしまえば・・ああ、娘も息子も生まれた事実が消えてしまうのか・・。」

「汝は神の力を得てもなお、自らの事しか考えが及ばないのか。汝が生まれるために2人の親が必要なのだ。その親、曽祖父は4人必要なのだ。10代前なら1,024人、30代前なら1,073,741,824人、一人でも欠けたら汝は生まれて来ない。汝に私が降りた理由は考えないのか。」

「・・・じ、十億・・。たった30代で・・。」

私は言いながらしかし、胸にやってくる暖かい波を感じていた。大勢の人間が何事も至極当たり前に生き、当たり前に死んでいった。何も特別な事は無く、歴史に名を連ねたり、莫大な財産を残す等と言った事は無いのに、どの人生も全て特別だった。生まれてきた命を普通に生きる事こそ、最も特別な善行なのだと、私の心に飛来する大勢の親たちの思いが教えていた。その流れを止めようとする行為を、私が報いを受ける事によって浄化できるのだ。いや、それは報いなどではない。法則通りに生まれ、それを受け入れる事は、真っ当に生きることになる。それは私を生むまでに生きた大勢の命が、先へ広がってまた未来に命を生み出す事を守るため、必然的に必要なことなのだ。私は自分がその手助けの為にこの大きな流れの中に存在したのだと判った。私は私の今を生きる。どんな状況だろうと、今を生き抜くことが、最も特別なのだ。

それは運命を諦める事とは違い、もっと積極的な命の発動に思えた。人間として生きることを放棄した祖父や祖母に負けてたまるか!

「神に手助けしてもらわなくてよかった。」

私は神の使いに言った。

「私が教えに来た目的は果たせたようだ。神はその人間の人生に手を出せない。神が力をかければ、もはやその人間の人生では無くなるからだ。」

神の使いは薄く透明になりながら言った。

「私はあるべき場所に帰るとする。人間の命に宿る神の元へ。汝の中へ・・。」

神の使いは跡形も無く消えた。

私はベッドに重い体と頭を抱えたまま座っていた。私はため息をついた。

「結局何も変わらない。」

だが、思いが大きく変わった事は確かだった。これからを生き抜く勇気が湧いた。これが救いなのだろうか・・。

私は上を向いて言った。

「神は手を出せないって、やっぱり言い訳に来んだな?」

私は冗談めかして明るい声で言ってみた。部屋が明るくなり、羽のような、雪のような物が降ってきて、ベッドや床に落ちてすぐ消えた。

「正解かよ!」

おわり




All rights reserved by NY