心眼
2012年

神田の古本屋街に一件だけ軒を並べたその画廊は、見た目も雰囲気も通りに並んだ他の古本屋と変わりが無く、よく間違えて掘り出し物の図書を探した客が飛び込んで来た。大家善三が戦後すぐに始めたその店は、当初闇市で手に入れた日曜雑貨品を、焼け残った大棚の蔵にある着物や骨董、絵画と物々交換するような店だった。善三はそれを駐留軍の上層武官に流して生計を立てていた。善三はその中で本物と贋作の見分け方を磨いていった。

 やがて高度成長と共にまた富裕層が絵画や骨董を求めるようになると、善三のその目は高く評価され、真贋とかけて「心眼の善三」などと呼ばれるようになっていた。

善三の店はその評判で、業界でも有名な名店になっていた。しかし彼は浪費が嫌いで、いつも店は改装される事もなく、そのまま、雑然としたまま今に至っている。有名な画家や画商は始めて訪れると必ず怪訝な顔をするぐらいその居住まいは雑然としていた。もちろん仕事は悪魔の臆病さと天使の大胆さをもって断じ、間違えたためしがない。慣れてしまうとその雑然さもなぜか信頼の証のような気がしてくるから不思議だ。

浪費嫌いの善三の貯蓄は当然膨らみ、一財産になっていた。だが、相変わらずの性格で、画商の組合の仕事だろうと、貧乏画家の仕事だろうと容赦なく報酬をきちっと取る姿勢は『しわい』とまで言われ、やはり業界でも有名だった。

「親父、いくら何でももうこの時代、少しは画廊らしくディスプレイとか考えないと、その手の客が入らないんじゃないか?」

もう還暦間近な息子の陽三は、店の入り口から、雑貨のように壷やら額やらが雑然としている店内を見回し、店の奥で鼻の上にかけた小さな丸い老眼鏡の上からぎょろりとした目をのぞかせてこちらを見ている善三に話かけた。

「いや、これでいい。」

そう言って善三はメガネを指で鼻に押しなおすと、蛇腹のランプをぐいと引き寄せ、顔に近づけた天眼鏡を熱心に覗き込んだ。

「啓祐はどこにいった?」

「ああ、組合まで用事を頼んだ。」

孫の啓祐は今年で40になるが、三年前に会社をリストラされ、一人暮らしから出戻りのように実家で暮らしていた。しかしこのところ登録している派遣も仕事がまばらで、しょっちゅうこうして善三の店で店番や雑用を頼まれては小遣いを稼いでいた。

「あいつも何か手に職をつけるとか、年齢のせいにしていないで前向きな何かを始めたらいいんだが・・。親父の店で小遣い稼ぎじゃあ学生と変わらん。」

「まあそう言うな。世の中無駄な事は一つも無い。」

「親父だってそろそろ体の事も考えなきゃな。いい年なんだからこんな場所で一日座っているのは体に悪いだろ。」

「まあ、どの道もうそう長く続けられるわけじゃない。好きにさせてくれ。」

「何を縁起でもない!心配して言ってるのに。」

「ああ、わかったわかった。だがお前は息子の心配をしてやれ。親への心配は後ろ向きだ。前を向いて子供の心配をしろ。」

「またそんな事を・・。まあいい。啓祐に今日は早く帰って来いと伝えてくれ。今日来客予定の、小さな商社の社長をしている知り合いが、仕事を紹介してくれるかもしれん。夕食までには帰れと伝えてくれ。」

「ああ、わかった。伝えておくよ。」

陽三は衣料を輸出入している中堅商社の部長まで昇進したところで定年になり、わずかな退職金と年金で暮らしていた。妻のみゆきは10年前に病気で他界していたので、いずれは善三と啓祐と三人で暮らすつもりだが、そうは言ってももう働けない自分の経済状況では不安がつきまとった。もちろん善三がかなり貯めて持っている事は想像に難くないが、そんな資産の片鱗さえ見た事がない上、「しわい」親父なのだ。子供の頃を思い出すと、貧乏では無かったかも知れないが、何不自由無く暮らせたわけじゃなかった。早くに他界した母親は苦労した訳では無さそうだったが、裕福に暮らしたとは到底言えなかった。陽三にとっては善三が世間で言われているような資産家だとはどうしても思えなかった。商売の性格からすれば、もし大きな取引で間違いがあれば、その損を一手に引き受けなければならない保険として貯め込んでいるともいえなくは無い。そう考えれば得心が行くような気がした。とにかく子供に面倒を掛けることを嫌う親父だった。

 三人で暮らせば、結局働き手として若い啓祐に負担をかける事になるかも知れない。それだけは陽三も親としてやはりどうしても避けたかった。いざとなれば善三の店を売り払い、その金で不動産経営でもと、はっきりプランがある訳でもなく考えていた。だが啓祐は早くまた独立させて、所帯をもたせてやりたかった。もういい年になってしまっていたので、そうは言ってもなかなかこれも実現は難しいのかもしれないが、「希望」という思いがなければ物事は永遠に実現しない。陽三は古本屋街を地下鉄の駅へ向かう道で、最近はその希望へ向かう探求心があふれるような若い人が減って、希望という名の光も、夕日色な年回りが増えてきた通行人と行きかいながら、そんな事を思った。

「啓祐、お父さんが夕食には帰れと言っていたぞ。知り合いの人が仕事紹介してくれるらしい。」

組合に届け物をして戻ってきた啓祐に善三が声をかけた。

「ああ、わかった。・・それも組合からこの間頼まれた真贋鑑定?ちょっと組合から頼まれ事が多くないか、じいちゃん。今届けてきたばかりなのに。仕事が来るのは良いが、絵の取引額は聞いてるのか?間違えたらみんなこっちがかぶる習慣なんだろ?」

善三がいま覗いている天眼鏡の先にある絵画をさして、啓祐が不満そうに言った。

「まあ、私の鑑定は今は参考意見だから。自分が取引しない限り昔のような危険はないよ。それにどの道最後決断は買い手だからな。まあ世の中金に繋がる紐はどこに結ばれてるか分からん物だ。」

「・・そんなものかねぇ。まぁ、じいちゃんが良いならいいけど。・・それ、そんな木枠にヒントがあるの?真贋の?」

絵を裏返し、木枠あたりを丹念に天眼鏡で見ている善三の様子を見て、啓祐が聞いた。「ああ。これはこの物の出をみている。木枠には癖があってな、作品当初から途中で変えたりされていれば分かるものだ。それでこの物の履歴が見えてくる。」

「ふーん。この作品はどうなの?」

「これはユトリロの作品と言われている。線がもともと弱く、まねしやすい。だからその絵画の構成や線では見分けにくい代物だよ。それでこういったユトリロの作品の贋作は相当量が出回っていると言われている。こんな時はキャンバスの年代や木枠から判断するのが良い場合もある。」

「で、それはどうなの?その絵は。」

「これは一目で贋作だと思った。キャンバスが新しすぎる。裏のここ。何か印刷してあるだろ?安い汎用の練習用キャンバスだ。ユトリロの時代にこんなものは無い。」

「なんだ。ならすぐそう組合に報告して返したら良いじゃないか。時間の無駄じゃないの?」

「一目鑑定は危険なんだ。いくらそう思っても、二つ三つと確信を重ねないと危ないからな。」

「なるほどねー・・。そんなものかねぇ。じゃあじいちゃん。俺はそろそろ帰るよ。それ届けるのは明日でいいんだろ?」

「ああ、かまわんとも。」

啓祐が出ようとすると、十号ほどの白い布に包まれた絵画を抱えた老夫婦が入ってきた。狭い店内ですれ違うことも出来ず、啓祐は帰るのをやめて老夫婦の用件を聞くことにした。

「いらっしゃいませ。何かご用命で?」

「ああ。ここは大家善三先生の店で間違いないですな?この絵を売りたいのだが。いくらになるか鑑定していただきたい。」

堂々とした恰幅の老紳士は、仕立ての良さそうな濃い紺のスーツを着て、糊の利いた白いシャツに象牙のループタイをしていた。その紳士に隠れるように、薄い紫の小さな小花柄が散った生成り色のワンピースを着た小柄で地味な印象の初老の婦人が、何か観念したようにうつむきながら、隠れるように佇んでいた。白い方が多い髪をきれいにお団子にしてシャンとした雰囲気は、何か女性らしい優しさというか、どこか懐かしいような印象を啓祐に与えた。

「じいちゃん。絵を売りたいってお客さんだけど。」

「どれ、絵をそこへ掛けてごらん。」

啓祐は紳士から包みを預かると、店の空いたイーゼルに載せて白い布を解いた。善三が今鑑定している絵と、タッチが良く似た絵が現れた。啓祐は思わず「あれ?」っと小声をもらした。

「何か不振な点でも?」

啓祐の小声を聞きつけた老紳士が、啓祐を睨むように見ながら、少し大きな声で話し始めた。

「この絵は三十五年前、女房の誕生日に私が信頼できるアメリカの画商から購入したものだ。当時は羽振りが良かったのだが、それでもかなり無理して購入したものだ。それなりの絵なら、価値が落ちることが無いと聞いている。これが金額だ。出来ればこのままこの値で買い取っていただければありがたい。」

啓祐は紙に書かれた額面の桁を見てちょっと驚いた。神田のこんな店に持ち込むような金額ではないような気がした。

「ご購入なさった画商にはご相談なさいましたか?」

啓祐が聞いた。

「話したようにアメリカの画商だ。時代が良く、日本にも画廊があったのだが、バブルがはじけて以来本国へ引き上げてしまった。それから絵を手放したい事情は詳しく話すつもりは無い。奥に居られるのは先生ではないのか?見てもらいたいのだが。」

老紳士は啓祐を肩越しに見越して、奥に座る善三を睨んだ。その迫力に啓祐は少しひるんであとずさった。後ろに隠れていた婦人がすこし怯えたように上目遣いで善三をちらりと見た。

 善三は啓祐に言って、お客二人、場所は狭いがテーブル椅子に掛けてもらうように促した。それから啓祐にハーブティを持ってくるように頼んだ。

「まあ狭くて申し訳ないが、とにかくお掛けになってください。まあつまらん事を色々お聞きするかも知れませんが、商売柄ですのでお気に障らないように。お答えになりたくない事はもちろんお答えにならなくても結構です。」

啓祐が奥の給湯へ行くのと入れ替わりに善三が座席についた二人の前に来て微笑みながら話した。老紳士は座りながら安心したように「ああ、よろしく頼むよ。」と言った。連れの婦人は善三に訴えるようなまなざしでまっすぐ見つめながら、今にも泣き出しそうな表情をして、すぐに俯いた。

お茶が運ばれて来た。老紳士はお茶を口に運びながら気分がよくなったらしく、饒舌になった。善三がこれはなかなか有名な絵ですなというと、老紳士はますます気分が良くなったらしく、善三の間合いの良い合いの手も手伝って、ひとり歴史を話し始めた。

「私は若いときにアメリカに渡り、日本と貿易を始めた商社へ勤めた。運が良かったとしか言えないな。何しろまだ英語もろくに話せなかったんだが、当時日本人で社員にしてくれと売り込むような奴は少なかったからすぐ採用になった。そこではいろんな物をトレードしたよ。日本は高度成長の真っ只中。面白いようにいろんな物が売れたな。当然日本支社が出来て、その立ち上げスタッフで日本の横浜に戻ってきた。そんな時女房と出合った。残念な事に子供には恵まれなかったが、出張の多い私を彼女は良く支えてくれた。その後今度は少し小金が出来ると商品相場に手を出すようになった。初めは面白いように儲かった。まだ経済が上り調子だったからな。まあその時代にこの絵も手に入れた。そんな時にオイルショックが来た。見るも無残なまでに叩きのめされたよ。あの頃は本当に大変だった。女房にも本当に苦労を掛けた。なあ。」

老紳士は婦人を振り返った。婦人は俯いたまま白いハンカチでどうやら涙をぬぐっているようだった。そのたたずまいは啓祐もどきどきするくらいはかなくて胸が苦しくなるたたずまいと雰囲気を持っていた。その時の苦労を思い出しているのかも知れない。

「お前には感謝しているんだ。だからもう泣くな。・・そう。この絵だけは何とか守ろうと必死だった。だがまあ、この年になった。二人の良い終の棲家として、良い高級ホームがあってな。そこへの入居資金の足しにと思って手放すことにした。女房も納得している。・・おっと、ここまで話すつもりじゃなかったのだが・・まあいいだろう。わははは。」

紳士は心地良さそうに笑った。婦人はそこだけ光を失ったように暗く沈んでいた。お茶の盆を抱えながら立って聞いていた啓祐には、よほど婦人は絵を手放したくないのだろうと思われた。老紳士がわざわさ婦人も納得しているなんて付け加えるところがますます怪しいとさえ思えた。

善三はしばらく夫人を見ながら何か考え事をしているようだった。そして今度はしばらく絵を見つめ、イーゼルからはずして裏を覗き込んだ。沈黙が流れた。啓祐には善三が少しにやりとしたように思えた。善三は目をつむり、まるで何か思い出しているように唇が少し動いたように啓祐には見えた。緊張で外の喧騒さえ耳に届かないような、静寂な長い時間が流れたように思えた。善三は目を開き、もう一度婦人を見た。婦人は俯いたまま握ったハンカチに力が入っていた。まるで何かの審判を待つ被告のように思えた。

「・・あの・・私・・。」

婦人は恐怖で青ざめたような表情のまま顔を上げ、意を決したようにか細い消え入るような声を出した。沈黙が怖かったかのようだった。

「奥様、良い品ですな。その金額で買い取らせてもらいますよ。」

善三が優しげな言葉を掛けた。

「それはありがたい。さすが大家先生だ。」

老紳士は飛び上がらんばかりに顔を赤らめて喜んだ。婦人はといえば・・・目を見開き、顔は死人のように血の気が引き、下唇が震えていた。

「ちょっと失礼しますよ。」

啓祐は善三を給湯室へ促した。

「じいちゃん!大丈夫なのか?じいちゃんが一目鑑定でこんな金額を決めるなんて前代未聞じゃないか!なんだか俺にはさっきのユトリロの贋作みたいな匂いがしたけど。」

「門前の小僧、習わぬ経を読むか。お前にも匂いがわかるようになったか。」

「なんだって、じいちゃん!じゃあやっぱり!」

「まあ、じいちゃんの好きにさせてくれ。」

善三は優しく啓祐の肩を叩くとまた店へ戻り、書類などの手続きをし始めた。買取金額は小切手で老紳士に渡り、老紳士が身分のわかる証明を残して取引が成立した。

老夫婦が帰ると善三は啓祐に声をかけた。

「啓祐、すまんがその絵は布を掛けて奥へしまってくれ。」

「じいちゃん!組合へ言ってすぐ転売の相手を探さないと金利だけだって馬鹿にならないじゃないか!しまっとく場合じゃない。今俺ひとっ走り行って来るよ。」

啓祐は少し色めき立っていた。普通ならこんな大きな金額は転売相手をある程度打診して決めておくものだが、善三の取った行動はまったく普通じゃなかった。

「いいからそのままにしておけ!お前はもう帰らんと夕食に間にあわないぞ!」

善三の意外に強い口調に、啓祐はしぶしぶ帰る事にした。

「じゃあじいちゃん、明日には組合行ってみるよ。」

「余計なことはせんでよい。さっさと帰れ!」

翌日、啓祐に事の顛末を聞いた陽三は、啓祐と善三の店へやってきた。善三は何事もなかったようにまた組合の頼まれ事の鑑定をしていた。あの絵はまだそのままイーゼルに掛けてあった。啓祐と陽三のただならぬ様子をみて、なぜか善三は楽しそうだった。

「父さん、啓祐から聞いたよ。これがその絵かい?啓祐が言うようにすぐ組合へ連絡して転売先を探さないといけないんじゃないか?」

「転売?はははは。こんなどこにでもあるような代物、玄人が買う訳がない。恥をかくから止めとけ。」

善三は可笑しそうに言った。陽三は開いた口がふさがらなかった。

「じいちゃん!なに言ってんだ!じいちゃんはどんな大金持ちかも知れないけど、あの金額をそんなものに払ったんならどうかしてる!」

啓祐は声を荒げた。

「まあまて啓祐。何か訳がありそうだ。聞かせてもらおうじゃないか。いいだろ父さん。」

陽三は啓祐の肩に手を置いてなだめながら、善三を見ながら言った。

「まあ慌てなくても、直にわかるさ。それより啓祐、その絵に布をかけたら、昨日の絵、鑑定あがったので届けてきてくれ。」

「父さん!」

その後も善三はのらりくらりとして訳を話してはくれなかった。

何日かが経った。啓祐が組合へ届け物をした時、どうしても何があったのか知りたくて、組合長に事の顛末を話した事がきっかけで、業界で大きな話題となった。口伝の怖さで、まことしやかに善三のアルツハイマーまで言われるようになっていた。善三のライバル達はこぞって話に尾ひれをつけた。鑑定の仕事がみるみる減って、さすがに組合長も何か手を打たないとと思うのだが、有効な方法が思いつかない。啓祐はと言えば、元は自分が組合長に話してしまった事がきっかけで起きた騒動だけに、落ち込み方もひどかった。

「はい。ああ、そうですか・・。まだお疑いならご面倒ですが組合をお教えしますから、再鑑定をしてもらってください。・・はい、宜しくどうぞ。」

善三はこのところ鑑定を疑う依頼主からの確認電話の対応が多くなった。啓祐はその度に心が痛んだ。

「じいちゃん、すまん。ごめんなさい。」

「啓祐、何度も言ったが、お前のせいじゃない。気にすることは無い。この業界では良くあることだ。こんな時はじっとやり過ごす事だ。やけになったり、打ち消そうと余計な行動をしない事だ。正しくあれば、正しい所へいくものだ。」

「でもじいちゃんが間違えてあの絵を買い取ったんじゃない事はわかるけど、理由がわからないから疑われるんじゃないかと思う。理由を教えてくれないか。」

「啓祐。物事には時期と言う物があるものだ。騒ぎ立てても季節が早くやって来ることは無いんだよ。」

半年が過ぎ、店には鑑定の依頼が全くと言って良いほど来なくなった。時折組合長が気を使って依頼して来るが、依頼主の希望でない事はありありとわかった。もともと一元や素人のお得意がいたわけでも無い店は、閑古鳥が鳴いた。それでも善三は特に何か手を打つでもなく過ごしていた。

「じいちゃん。どうするんだこれから・・。じいちゃんだってうんと蓄えがあるわけじゃないだろ?しかも今回で相当つぎ込んだわけだし・・。そろそろ親父の言うように、うちに来て三人で暮らさないか?俺、罪滅ぼしに何でもやって稼ぐから・・。」

「ばかめ。そんな覚悟があるなら自分の為に働け。」

善三は心配する啓祐の頭を乱暴になでた。

「じいちゃん・・。俺もう子供じゃないぜ。」

「何を言うか。私との年の差が一度も縮まったことが無いくせに。」

「じいちゃん!無茶言わないでよ。」

困り顔の啓祐を見て、善三は面白そうに笑った。

一年が過ぎたある日。

「ごめんください・・。」

店のドアが空いて、ちょうど午後の古本屋街の通りにまっすぐ当たって照り返した陽の光が、店内をぱっと明るくした。

「いらっしゃ・・、あっ!あなたは!」

あの婦人がまた白いものが多い髪をお団子にして、品のある薄い紫のワンピースを着て入り口に立ち、もじもじとしていた。

「これ、啓祐。良い年をしてそんな挨拶があるか。・・申し訳ありません。うちの者がとんだ失礼を。いらっしゃいませ。どうぞお入りください。啓祐、お茶を差し上げて。」

その婦人は椅子には座らず、深々と善三にお辞儀をした。善三も深々と頭を下げた。

「大家先生。ご無沙汰をしてしまいました。主人は先月安らかに他界しました。本当にありがとうございました。・・これはお借りした小切手です。金利にもなりませんが、少し足させていただきました。本当にありがとうございました。」

「そうでしたか・・。それはさぞお力落しでしょう。お悔やみ申します。・・しかし、あの絵は私が買い取ったものです。お金をお貸しした覚えはありませんが。」

「・・そうでしたね。では改めて、また買い取らせてください。」

「おや、そうですか。ではあれは贋作ですから、その金額はいただけません。」

「まあ。そんな意地悪を言って、一人残された未亡人を困らせないでくださいな。」

「だからこそそう申しています。お金はどんな時も邪魔にならないものですよ。」

「ええ。若い方ならそうでしょう。でも私のように主人との思い出と残りの少ない時間を噛み締めながら過ごしたい者にとっては、気持ちに負い目を残すような物は置きたくないんです。」

お茶を運んできた啓祐には、二人の会話がとんと理解できなかった。借りた?買った?返す?何のことを言っているのか。じいちゃんもちゃっかり贋作ですからとか・・。

「あの・・。一体どう言う事で・・。」

啓祐は思わずお茶を出しながらその婦人に聞いてしまった。

「これ啓祐。突然失礼だろう。」

善三がたしなめるのを制して、婦人が答えた。

「大家先生のお孫さんね?先生の事だから、お身内の方にも何も話していらっしゃらないのね。先生、私からお話してもよろしいかしら?私も先生に真意を確かめたわけではないし、絵を買って頂いた時以来ご連絡も差し上げない不義理をしていましたので、本当に私の理解で良かったのかもお伺いしたかったのです。」

婦人は善三に向き直り、少し首をかしげて聞いた。

「それはもう奥様がよろしいなら、結構でございます。それに、不義理も何も・・。商売ですからどうかお気になさらず。」

善三はかしこまって答えた。

「お孫さんお名前は・・。」

「啓祐です。」

啓祐がかぶせるようにせっかちに答えた。

「・・そう、啓祐さんね。たぶんあなたはまだ小さかった頃だわ。先日ここへ一緒にお邪魔した主人が、商品相場で大きな失敗をしてね。お恥ずかしい話だけど、生活にも窮するほど苦しかった時代があったの。持っている財産は出来るだけ処分して何とか生活をつないでいたわ。でも主人は、主人が買ってくれた絵だけは絶対守れと言って、手放させてくれなかったの。たぶん主人の意地なのだと思ったわ。その意地さえあれば立ち直れる。こんな時代も乗り越えられると思ったのだと思うの。がんばってくれたのだと思うの。」

婦人は「失礼。」といってハンカチで目のふちににじんだ涙を拭いた。それからため息をついて一口お茶をすすった。

「そんな時に証券でいい話が来てね。現状を打開出来るかも知れなかったのよ。でも手持ちの資金が無かったの。それで私、密かにあの絵を売ろうと思ったのよ。でも、主人の意地の手前、あからさまに売るわけには行かなかったわ。でもやはり売るしかなかったの。でも、主人にはいえない。だから贋作を買って、本物は処分したのよ。いずれお金を貯めて買い戻すつもりだったの。主人には海外に居る私の叔父から借りたことにしたわ。でもそのおかげでまた資産家になるほどでは無かったにしても、絵を買い戻せる位の貯金が出来る暮らしになれたわ。もちろんその貯蓄は主人に内緒のへそくりだけど。」

目を細めた恥ずかしそうな微笑は、思わずまわりもつられて微笑むほど心和む雰囲気があった。

「でも、そんな時主人の病気がわかったの。余命を宣告されて、私はもう目の前が真っ暗になったわ。しかも私たちには子供が居ないから、看病を私一人に背負わせる事になる事を嫌がって、ホームへ入ると言って聞かなかった。私は今までもそうだったから、私一人でも支えてゆく覚悟があったのだけれど、主人は聞かなかった。言い出したら聞かないひとだから・・。そしてあの絵を売って入居費用に当てると言い出した時は驚いたわ。私はまだ本物を買い戻していなかったから・・・。どうして良いかわからなかった。だから主人は暗くなりがちな私を、絵を売りたくないからだと思っていたと思うの。でも時間があまり無かったから、主人はどんどん行動して行ったわ。新聞で知った協会に問い合わせたら、こぞって皆、大家先生の名を上げたわ。よっぽど有名な方なのだなと・・。でも私は困ったわ。見間違えてくれるような人じゃないと・・。いいえ。もちろん鑑定してくださる方をだますつもりでは無いんです。もし本物として間違えて買い取ってくれても、お金は返すつもりだったから。主人に知られたくなかっただけなんです。だからここに主人と来たときは生きた心地はしなかったわ。でも、先生が提示した金額で買い取るとおっしゃった時は、本当に心臓が止まるかと思ったわ。」

「じいちゃん・・いや善三が間違えたと思ったからですか?」

啓祐が聞いた。

「いいえ。啓祐さん。先生には事情がすべてわかったのだと思ったの。それで驚いたのよ。そうですわね?先生。」

婦人はニコニコと笑みを浮かべて婦人の話に耳を傾ける善三に聞いた。

「生きている年数分、色々な事がわかるようになるものです。」

「やはり。先生はお見通しなのね。絵の真贋だけじゃなくて、その絵を持つ人の心までわかるのよ。本当にすごい方だわ。」

啓祐はう~んと言いながら腕組みをしてつぶやいた。

「『心眼の善三』ってただの渾名じゃなかったんだ。」

                おわり




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