「きゃーっ!や・・やめてっ!」
昭信は駅からの帰り道、夏の終わり、つるべ落としのように暗くなった路地にさしかかった所で、女性の叫び声が、もみ合うような音と共に聞こえた。昭信は最近暗がりがすっかり弱くなった目を凝らし、街灯の無い、塀ばかりの路地を腰を落とすように低い姿勢で、手を前に空気をかき分けるように進んだ。
「おい!何をしている!」
薄っすらと女性の着ている黄色いワンピースと、その腕をつかんだ黒っぽい服の手が見えた。暗かったので、見えたわけではないのだが、昭信の胸の奥のどこか懐かしく切ない部分と、女性の持つ雰囲気が何故か共鳴したような気がした。その女性が怖い目に会っている。昭信はいてもたってもいられない気持ちになった。
「何だてめえ!引っ込んでないと怪我するぞ!」
黒い服を着て暗がりにいる男がどすを聞かせて言った。昭信はあてずっぽうで女性から手を離したその手が向かった先に体当たりをした。どす!っと左肩のあたりに男の体のどこかが当たった瞬間、甲高い金属音が道路を滑り、遠ざかって行くような音がした。だが昭信は、自分の勢いで前のめりに倒れこんでしまった。昭信は倒れながら大声を上げた。
「ドロボー!ドロボーだ!」
地面に倒れた昭信の背中を男はつかんで引き起こした。その拍子に、昭信が着ていたシャツが下着ごと破れ、胸がはだけたような状態になった。昭信はとっさに男の腕をつかんで男を見た。男は目だし帽をかぶっていたが、薄っすらとぎょろりとした目が見えた。その瞬間、顔に衝撃が走り、.鼻の奥がきな臭くなった。どうやら殴られたらしい。昭信は顔を抑えて膝をついた。男はそこを蹴り上げたらしく、顔を抑えた昭信は左肘に衝撃を感じ、そのまま横へ倒れこんで頭を打った。
「そこで何やってるんだ!」
塀の向こうの住人が、2階の部屋から懐中電灯で路地を照らした。走り去る足音が遠ざかると、すぐそばで昭信に大丈夫かと声をかけ、昭信の、はだけた胸に破れたシャツをかぶせなおしながらも低くすすり泣く女性の声の遠くから、何人かが走ってくる気配がした。昭信は横になったまま、女性の泣き顔を薄暗い中ぼんやり眼の端に入れながら気を失った。
昭信は背中にごつごつとした衝撃を数回感じ、目が覚めた。戸板とは言わないが、お世辞にもベットとは呼べない代物に、体を括り付けられ、あまり身動きが出来なかった。頭になにかヘッドギアのような物をつけられているらしく、顔も少ししか動かせない。昭信が自分の状況を理解しようとする手伝いのように、あの独特な「ピーポー」と高低の電子音を繰り返す音が、昭信の寝ている部屋全体に響き渡り、今度は全身にごつごつと車輪の振動が伝わってきた。どうやら救急車に乗せられているようだ。しかも、全身縛られ、身動きが取れない。自分はそんなに重症なのか?
「気が付きましたか。気分はどうですか?何処か痛む所は?」
青い医療用の服を着、白に赤い線が入ったヘルメットをかぶった若い男が、昭信を覗き込んで尋ねた。人の事縛り上げておいて、気分はどうかもないものだ。昭信はさっきから左手に違和感があったので動かそうとしたが、激痛が走った。
「ひ、左腕が痛い。」
昭信は脂汗が出そうになりながらようやく答えた。
「そうですね、詳しくは病院に着いてから検査の結果を見てからになりますが、左腕の上腕の骨が折れているかもしれません。首と頭も詳しく検査した方が良いので、今は不自由かも知れませんが、動かさないようにしてください。他に何処か痛い所は?」
青い医療用の服とヘルメットの救急隊員は、昭信の名前や生年月日、住所、それに病歴や今飲んでいる薬などを聞いてきた。家族の事も聞かれたが、10年前に女房を無くして以来、子供のいない昭信は一人暮らしだった。ようやく頭がはっきりしてきた昭信はそれらに答え、警官が同乗しているので、後で詳しく起きたことを話して欲しい事を告げられた。
(警官・・?)
私は頭を動かして室内を見回そうとしたが、ヘッドギアのようなものをつけられているので、自由が効かなかった。私は思い切って声をかけてみた。
「お巡りさん、いらっしゃるんですか?」
「ああ、気がつかれましたか。大丈夫ですか?ご同乗させてもらっとりますのは、公園口交番の巡査長、原口と言います。」
「小沢昭信です。」
昭信は看護師と入れ替わるようにして横に立った警官の制服の男を、目だけ動かして見た。
「病院について検査が終わったら、何があったのか詳しく教えてください。」
年の頃は40始めだろうか。地味な印象の小柄だががっちりした体形の上半身の原口巡査長が言った。
「あの、女性はどうなりましたか?けがとか・・。」
昭信は、気がついてから気になっていた事を聞いてみた。助けようと飛び込んだのに、犯人をそのままに自分が気絶してしまったのだ。しかも助けようとしたその女性は、昭信の乱れた服まで直そうとしてくれた。皺くちゃで貧相な胸板の、とんだヒーローだ。昭信は思い出すたび、悔しさと恥ずかしさが交互に湧き上がって来て唸りたくなるような感覚に襲われた。
「・・ええ、大丈夫です。少しショックだったようですが、けがも軽い打撲程度でした。あなたの事を気にしていましたよ。本人は一応パトカーで近くの救急へ念のため行ってもらいました。」
ゆっくりと落ち着いた声で話す男だった。
「うう・・そうですか・・。」
苦い後悔が混じったため息混じりに私がそう言うと、原口巡査長は軽く私の右肩を、とんとんと叩きながら覗き込んで、笑みを見せた。若いころならその笑みは、他人を助けようとした勇気への賛辞以外に受け取り方を知らなかっただろう。だが老年に入った自分には、この敗北感も手伝って「冷や水」的な意味合いを感じ、それを揶揄されて恥ずかしくなる気持ちも同居した。私はひとまず目を閉じる事にした。
もう外はうっすらと明るくなるであろう時刻に、私は薄暗い病院の外来待合で原口巡査長に調書を取られていた。
怪我は思ったほど重くなく、骨も折れていなかった。殴られた頬と、その衝撃を受けた首、倒れた時に打った頭、さらに蹴られた左肘に打撲跡が残り、まだ触ると痛かったが、医者によると1週間もすれば痛みは無くなるとの事だった。頭部CTにも異常は無かった。30代後半であろう医者は、昭信が65歳という年齢の割には骨が丈夫で、筋肉も柔らかいと、褒め言葉のつもりで言ったのだろう。だが『年齢の割には』と付いたから、昭信には揶揄にしか聞こえなかった。別にひねくれているつもりは無いのだが、年齢を重ねないとわからない受け取り方があるという事を、若いうちには思いもつかないものだ。昭信は自分を省みてそう思った。
ひと通りの調書を取った原口巡査長は、少し声を落として昭信に言った。
「犯人はサバイバルナイフを持っていたんですが、気がついていましたか?」
「え?そうなんですか・・。暗くて良く分からなかったですね。女性の黄色い服が見えて襲われているんだと思ったので・・。夢中でしたから。」
私は情景を思い出しながら、我ながら無茶をしたものだと思った。体当たりした時、もし犯人がナイフを私に向けていたら・・。運が良かったと言えばそれまでだが、ナイフ等、武器を使うつもりがあったような『感じ』がしなかった。結構この『感じ』は後で考えた時に当たっている場合が多い。今回のように何も考えずにいる時は特にそうだった。これも年の功というやつだろうか。
「思い出して怖くなったんじゃないですか?これからはこんな無鉄砲な事はしないでくださいよ・・。」
原口巡査長が最後に何か付け加えたかったように言葉を終わらせた。
「年だからですか?」
昭信は柔らかく付け加えてみた。
「あ・・いや、そういう事ではなく・・。」
原口巡査長はまじめな顔を緩め、帽子を取り、短い髪をなで上げ、また帽子を被った。昭信はそのまま黙ってだいぶ明るくなって来た正面玄関から見える外を見た。若い時なら原口巡査長の言葉を突っ込むように(じゃ、どういう意味ですか。)としつこく食い下がったかもしれない。だが、それも何だか面倒に感じた。もしかしたらこの億劫さが年を取ったという事なのだろうか。こんな態度も傍から見たら、ひねくれたじいさんにみえるかも知れない。昭信は少し落ち込んだ気分になった。
「小沢昭信さん。小沢さん。」
看護師が外来カウンターの横の、病棟への通路から昭信を呼んだ。結局、頭を打っていたので、検査で異常が無いとはいえ、一応1日入院して様子を見る事になった。その準備が出来て看護師が呼びに来た。
あれから2カ月がたった。何度か原口巡査長が家に来て、再確認やら顔写真やらを持ってきては調書を取って帰った。未だに犯人は捕まっていないそうだ。昭信は原口の訪問を受ける度にあの女性を思い出し、少し胸が痛むような気持ちになる事が不思議でならなかった。大きな傷を負ってしまったのではないかと思ってしまうのである。
(老婆心ってやつかな・・。いや・・まてよ・・。)
日常でない事柄に合った時、たまたま一緒に体験した男女が恋と似た感情を持つ事があるらしい事を思い出した。『つり橋効果』という奴だ。今日は原口に彼女がどうしているか聞いてみようと思ったが、いい年をして『つり橋効果』だと思われるかもしれない事が恥ずかしくなって聞けなくなった。
「そうそう、あなたが助けようとした被害者、またあの路地を通ってますよ。」
玄関先に腰掛けた原口巡査長が、正座をしている昭信に、思いがけず彼女の情報を言い出した。
「元気にしているんでしょうか。怖くないんですかね。あんなことがあってまだ犯人も捕まってないのに。」
昭信はいやみのつもりは無かった。だが原口巡査長は「いや、面目ない。」と言って頭の後ろをなでた。
「ですがね、事件の路地、街灯が建ちましたよ。もちろん、パトロールも続けていますから、今は他の路地より安全になったくらいです。まあ、それでも一人で夜道は普通の男でも怖いものですけれどね。」
原口巡査長は腕組をしながら言った。
「私なら引越しを考えるかもしれませんね。怖くて。」
昭信はまじめな顔をして、彼女の事をおもんはかったつもりだった。
「小沢さん、凶器を持っているかもしれない相手に体当たりしておいて、それはないでしょ。あっはっはっは。」
原口は可笑しそうに笑った。昭信はてれくさそうに下を向いた。
その夜昭信は、あれ以来通らなかったあの路地へ行ってみた。事件があったおおよその時間を選んで行ってみた。路地の入り口で、犯人にまた出くわすかもしれない恐怖は不思議になかったが、彼女に出会ったら気まずいかもしれないと、少しだけ躊躇した。だが、反面ここへまた来たのは、もし彼女に出会えたら、彼女がどうしているか様子をちょっと見てみたい気がしたからだった。路地の入り口は思ったより明るく、事件のあった辺りまで明るく見渡せるほどだった。昭信はその時は無かった街灯が照らす事件の場所に立ち、ゆっくりと事件の事を思い出してみた。
(あの時、体当たりをしたのに、自分が倒れ、犯人は倒れなかった・・・。)
昭信はそれを思い出すと、また悔しい気持ちになった。昭信は身長171cm、体重67kg。痩せ型で、重量級では無いけれど、決して小柄ではない方だ。その昭信の体当たりを受け、犯人は倒れなかった。ナイフを飛ばされるほど衝撃を受けたはずなのに。昭信は殴られる前に見た犯人の事を思い出そうと、記憶に集中した。
(背はさほど大きくなかった。自分より低いくらいだ。確か腕をつかんだ。腕は・・うん、前腕だったが、結構がっしりしていたような気がする。顔は・・目出し帽をかぶっていたから分からないが、そう言えば首から肩にかけて筋肉が盛り上がっているたように感じた。)
調書の時にははっきりしなかったが、今自分が思い出した事を、警察へ話に行くべきだろうと思った。昭信は路地をまっすぐに抜け、原口巡査長のいる交番へ行こうと思い歩き始めた。ほどなく一つ向こうの街灯下の明かりの中へ、黒いTシャツに黒いズボンを履いた、小柄だが体躯のがっしりした男が、静かに歩いて入って来た。街灯が建つと、その下は明るいが、街灯と街灯の間に暗がりが出来る。街灯下が明るいので、その闇は余計に暗く感じ、その男のように黒い服だと突然明かりの下へ現れたような錯覚に陥る。
(まさか・・。)
なんとなく見覚えのある雰囲気に、昭信は少し身震いした。街灯の灯りがあるのだが、少し離れていると老眼で顔の細部がはっきりしない。もちろんあの時、男は目だし帽をかぶっていたのだから、顔が分かるわけではないが。近づくにつれ、薄いTシャツを押し上げる筋肉で盛り上がっている体が、昭信に威圧感を与えた。実際に光のある所で見るその男の体躯は、圧倒的な質感があり、もしあの時、そんな体が見えていたら、あんな体当たりは躊躇したかもしれない。それほどその男の体躯は、動物的な優劣を意識させるだけの存在感があった。すれ違う少し前、男が昭信をぎょろりと見た。昭信は緊張して顔がこわばった。
(やっぱり!あの目だ!・・どうする・・。)
だが確信があるわけでもない。ましてや昭信は警官でもない。『どうする』も無かった。それに今度こそ正直怖い。この動物的な、敗北感に近い恐怖は、理性が幾ら否定しても消すことが出来ない。おそらく、動物の雄が持つ本能的な何かなのかもしれない。この年になってもなお、『雄』的な部分が残っているとは、人間もつくづく動物なのだ。原口巡査長が『無鉄砲』と評した事は正しい。確かに、この男に、しかもナイフを持っているこの男に、体当たりをするなんて。あの時は暗かったから出来たのだと今わかった気がした。
男は特に変わった様子もなく、そのまま横を通り過ぎて行った。私はどうするか歩く速度を緩めながら考えた。
(やはりこのまま交番へ行って報告しようか・・。いや、今の男をまた探し出せる保障もない・・。)
昭信は立ち止まった。
(いや、ここは勇気を持って後をつけてみよう。)
昭信は決心して深呼吸を一回すると、ゆっくり向きを反対に変えた。だが男の姿はすでに無かった。
昭信は自宅で近くのスポーツジムから貰ってきたパンフレットを眺めながら、原口巡査長が言った言葉を思い出していた。
「小沢さん、情報は大変ありがたい。ですが、あまり危険な事はなさらないでください。まあ、いまだ犯人を捕まえてはいないので、頼りなくお感じなのかもしれませんが、どうか危険な事は是非おやめください。犯人と思しき人間を見たら、真っ先に警察へ向かってください。決して今回のように追いかけようなどと思わないでくださいよ。まあ、今回は何事も無かったから良かったけれど、犯人があなたの顔を覚えていない保証は無いんですから。それに・・・。」
原口巡査長はここで言葉を濁した。昭信は「年だからですか。」卑屈にならないように、ちょっとだけおどけて言った。
だが原口巡査長は帽子を取り、頭をなでてかぶりなおし、意を決したように言った。
「それ以前に、犯罪とは、ドラマや小説のような、そんなに軽い事ではありません。とにかく巻き込まれない、関わらない、これが自身を守る事になります。小沢さんは特に体に恵まれたスポーツ選手と言うわけでもないし、体力が人一倍ありそうでもない。特に鍛えられた警官でさえ犯人との物理的な接触は出来るだけ避けるようにしています。いくら訓練しても、自棄になった犯罪者の暴力との対峙は、大変危険だからです。それに・・年下の私が言うのも失礼に当たるかもしれませんが、一般的には年齢と共に、基礎体力や体の機能の低下は否めない。いや、それが悪いことだと言っているのではありません。自然の流れなのですから、当然でしょう。小沢さんは65歳という年齢なんです。どうか、今回のような事は是非おやめください。失礼な事を言いましたが、小沢さんの安全の為です。どうかお許しください。」
原口巡査長は帽子を取って深々と頭を下げた。
昭信は出すぎた事をしたと詫びた。だが、内心はショックを受けた。全く原口巡査長は正しい事を言っているのだが、この年齢の自分が、他人にどう映っているのか医者意外にはっきり口にされたのは初めてだった。考えてみると現在の年齢と意識がずいぶんずれているような気がする。確かに気持ちは30代後半から40代前半で止まっている。目は老眼で近くが見ずらいし、部屋が何となく暗く感じたり、テレビの若者言葉が早口過ぎて聞き取りにくかったりするようにはなった。だが、まだ意識ははっきりそういう年齢がやって来た事を認めてはいないようだ。
(しかし65歳の意識ってどうやって持つんだ。わからない。確かに体は衰えている。特にそれを阻止する何かをやってこなかったからな。流れのまま、そのまま・・。いまさらかも知れないが、少し何か運動するべきだな。)
昭信が貰って来たパンフレットは、自治体が健康増進の奨励補助を適用しているジムなので、昭信の年齢では相当額の補助が出た。昭信のように、退職金と年金で暮らしている者にとってはありがたい。とはいえ、続かなければ入会金等が無駄になる。そこは良く考えられていた。無料体験があるのだ。昭信は早速申し込んでみる事にした。
茶色を基調に、ダークグレーとバーミリオンが差し色として使われているシックなインテリアのそのジムの受付にいる、白いそのジムのロゴマーク入りトレーナを着た若い男女3人のスタッフが、「こんにちは!」と声をかけてきた。昭信はにこやかにあいさつをすると、パンフレットを見せ、体験がしたい旨を伝えた。カウンターから出てきたポニーテールの若い小柄だがしっかりした体形の女性スタッフは、「こちらへどうぞ。」と奥にある接客スペースらしい部屋をさし、昭信を促した。前に立って昭信を誘導する、紺色のショートパンツに白いショートソックスと、白いスニーカーを履いた彼女のスラリとした足は、歩くたびにももとふくらはぎの筋肉が盛り上がり、アスリートの美しさがあった。
「何か陸上をやっていらっしゃるんですか?」
白い丸いテーブルと薄茶の椅子が6セットほど置いてあり、飲料の自販機とリラックス用のソファベットが4台ある明るい部屋へ通され、「こちらへお掛けください。」と引いてくれた椅子に腰をおろしながら昭信は聞いてみた。
「ああ、ええ、大学でハードルをやっています。良く陸上だとおわかりですね。」
ひっつめたポニーテールの髪を揺らしながら、化粧気が無いあどけない顔を崩して彼女はけらけらと笑った。
「いや、あてずっぽうです。とても美しい足をしてらっしゃるから・・。あ、いや、変な意味ではありませんよ。」
昭信の言葉に答える代わりに、彼女はまたけらけらと屈託なく笑った。
彼女が健康的な足の筋肉を動かし、ポニーテールを揺らしながら部屋を出てゆくと、入れ替わりのようにダークスーツに名札をつけ、まるでホテルのフロントマンのようなマネージャらしい男性がファイルを抱えて入ってきた。
「本日は当クラブをお選びいただき、ありがとうございます。私、当クラブマネージャーの藤森と申します。早速ですが、体験コースの内容や趣旨をご説明させていただきます。」
マネージャーはてきぱきとなれた様子で説明を終わると、昭信に書類とボールペンを差し出し、記入が必要な場所を説明しながら、シャープペンで丸をつけて行った。昭信は持ってきた老眼鏡をかけると、説明に従い記入して行った。
「ではこれでお手続きは完了となります。体験の日は本日以降、ご都合の良い日をご指定いただけますが、どうなさいますか?」
「今日、早速でもよろしいか?」
昭信が聞くと、「もちろんです。」とマネージャは答えながら書類を持ってきたファイルにしまい、再びフロントへと案内された。
「私、大木と申します。本日一日、体験入会ということで、施設等をご案内させていただきます。この緑のリストバンドをつけてください。体験入会の印ですので、どの施設でもスタッフがご案内させていただく目印とさせていただいております。では、トレーニングウエアにお着替えください。」
そのスポーツクラブは、ウエアも靴もタオルも全てレンタルなので便利だった。施設はわりと大きく、マシントレーニング、スタジオと地下に25mプールがあった。昭信はマシントレーニングをやってみた。
「マシンはどの筋肉を鍛えるかはっきり目的をもって設計されていますので、正しく動かせれば非常に効果的です。初めは重の負荷をかけずに動かし方とどの筋肉で動かすかを覚えてください。」
そのジムのトレーナーに「大木」と書かれた名札をつけ、紺のハーフパンツをはいたそのスタッフは、首から肩口の盛り上がる筋肉と、ハーフパンツがはちきれそうな腿の筋肉が、あの犯人の男が小さく思えるほど発達していた。
昭信は大木の説明に従い、マシンをこなして行った。重りをつけていないとは言え、初めて本格的に動かす筋肉は、どこも2,3回で悲鳴をあげた。大木は容赦なく「せめて8回はいきましょう。はい、頑張って!」と言って昭信の弱音をことごとく握りつぶした。運動後のストレッチを習いながら、昭信は聞いてみた。
「大木さん、凄い体ですね。どのくらいでそんな体になるんですか?」
「ああ、ありがとうございます。ボディービルは私の趣味でして、体育大で運動学を学ぶようになって興味をもった学生の頃からですから、もう8年ほどになりますね。大会で何度か入賞するようになったのはここ3年くらいですけどね。」
「はあ、そりゃすごい。まあ、そこまでとは言わないけれど、私でもそこそこ筋肉をつけられますかね?」
「ははは、もちろんですよ。お歳を気にしているんでしたら、それは間違いですよ。人間の体はいくつになっても鍛えられます。ただし、人によって年齢等による機能の変化がありますから、それさえ間違わなければ。」
「『年齢による』ってくだりがどうしてもやっぱり歳だと条件が難しくなるんじゃないかと思ってしまいますけどね。」
「いえいえ、年齢による変化と言うのは、何も高齢な場合だけではありません。思春期や壮年期にあるホルモンバランスの変化や体格の変化等、体の変化を捉えた鍛え方というものがあるのです。60歳でビルダーの大会デビューをした方もいますよ。」
昭信は『年齢』と聞くと『年寄り』と短絡する自分の意識にはたと気が付いた。
(なるほど、自分ではそうでないと思っていたが、これが卑屈と言うことなのか。)
「なるほど、そうでしたか。良いことを聞いた。まあボディービルの大会は目指しませんが、少し鍛えたいとは思っています。宜しくお願いします。」
大木はにこにこと大きくうなずいた。ほっとする笑顔だった。
昭信は体験が終わるとすぐに入会の手続を取り、翌日から通い始めた。2日目にひどい筋肉痛に悩んだが、大木の指導で食事から取るたんぱく質と、軽い負荷の運動で見事に痛みが軽くなった。昭信はすっかりはまってしまった。運動がこんなに楽しいとは。大木との会話も為になり楽しいが、少しずつ増えた知り合いとの会話がまた楽しかった。何日かの間隔で同じような人と別段の利害なく会える機会は、学生以来だった。特に昭信は「関岡」と書かれたネームプレートの女性スタッフが、あの事件の女性に似ているような気がしていた。だからその女性スタッフに褒められると、あの女性の前で、ヒーロー気取りの無茶の末、結局気を失うような醜態を、少しでも取り返せるような気がした。もちろん、スタッフの言うことは、世辞交じりなのは分っているが、やはりうれしいものはうれしい。
3カ月ほど過ぎ、季節はすっかり冬景色になった。昭信は相変わらずジムに通っていた。体はと言えば、腹筋と背筋がついて姿勢が良くなった。胸板も明らかに厚くなり、腕も太く逞しくなった。ただ、年齢で皺とたるみがある皮膚は仕方が無かった。若い、逞しい体になったとは言いがたいが、がっしりとした体型になり、洋服が良く似合うようになった。
原口巡査長が久しぶりにやってきた。彼は昭信を見るなり目をみはり、しばらく動かなかった。
「どうかしましたか?」
昭信が微笑みながら玄関先で固まったようになっている原口巡査長に声をかけた。
「ああ、いや、ずいぶんと変わりましたね・・。驚いた。トレーニングしているんですか?」
昭信は今通っているジムの事や、スタッフに詳しい人がいて、食事も含めて指導してもらっている事等を話した。
「いやぁ、失礼ですが、小沢さんのおかげで年齢という先入観が打ち砕かれました。なんだか自分も未来が怖くなくなりましたね。いやぁいいお話を聞いた。・・・おっと、寄り道はそのくらいにして、本題に入ります。例の犯人ですが、どうやらまた目撃情報が出ましてね。この辺にまた現れるかも知れませんので、一応ご注意を。もちろん警戒を怠っておりませんから安心なさってくださっていいんですが、この間のような無茶はいけませんよ?よろしいですか?・・まさかその為に鍛えたんじゃないでしょうね。」
「まさか!」
そう言いながら、昭信はちょっとだけうろたえた。
翌日、昭信はたまたま用事の帰りにあの路地を通る事になった。回り道も出来たが、時間もあの事件のときより早いので、そこを通ることにした。季節が進んだせいで事件の日より早い時間だったが夕暮れが速く、空はもうすっかり暗かった。あの時とは違い、今は街灯が明るかった。ただ、街灯と街灯の間がやけに暗い気がした。向こうの街灯の明かりの下に、赤いコートを羽織った女性が歩いて入って来た。昭信はすぐあの女性だとわかった。年甲斐もなく、少し胸が高まった。
(挨拶をするべきか。いや、向こうは覚えていないかもしれないな。)
昭信は少し歩みを緩めた。女性が街灯の間の暗がりに入り、昭信のいる街灯へ入って来た。まっすぐ昭信を見つめ、微笑んでいるように見えた。彼女の後ろからどすの効いた男の声がした。
「おい!俊夫!やっと見つけたぞ!」
彼女は驚いて昭信に向かって走り、立ち止まった昭信の後ろへ隠れ、昭信の着ているジャケットの背中をつかんだ。ふわりと甘い香りがした。彼女はヒールを履いているとはいえ、意外と背があり、昭信より少し高かった。身をかがめて昭信の後ろに隠れても、きっと前から見えているだろう。
「怖い・・。」
彼女の震えるかすかな低い声がした。昭信は少年のように心が奮い立った。なんとかこの人を守らねば。黒いセーターを着た男が灯りに入って来た。男はなにもかぶっていなかったので顔が良く見えた。前にすれ違ったあの男だった。昭信は少しひるみそうになったが、大木の言葉を思い出した。
(体の芯は骨盤の重要な筋肉である骨盤底筋群、大腰筋、腸骨筋に力が入れられるように鍛えれば、少しぐらい押されてもぶれなくなります。)
昭信は芯になる筋肉に力を入れた。
「てめえ・・。邪魔するな!どういうつもりだ!そこをどけ!」
男が両手で昭信の上腕を掴んで引いたので、昭信は両手を男の両脇から男の上腕を掴み、腰を落とし、後ろに引く男に合わせ持ち上げるように押し上げながら一歩踏み出した。昭信はほとんど力を掛けなかったのに、男は勢い良く後ろへ飛ばされるように倒れた。木下に教えてもらった護身術だ。習いたてのなまくら護身術だが、効果があった。
「げほっ。げほっ。・・このやろう!」
男は倒れた時、背中を打って咳き込んだが、そう喚くと昭信を睨みながら片手をついて立ち上がりながら、ポケットから飛び出しナイフを取り出し、刃を顔の傍で勢い良く出して見せた。さすがに昭信はひるんだ。だが、女性がまた昭信の背中に掴まった時、なぜかすっと恐怖が消えて行った。昭信はヒーローになったのだと思った。いつもころんだらすぐ泣いてしまうような子供でも、自分の好きなヒーローになりきっていると、少々の事では泣かなくなるようなものだと思った。なんだか男はいくつになっても単純にできているらしい。昭信がまた体の芯に力を入れた時、「待て!動くな!」「おとなしくしろ!」と口々に叫びながら警官が数名、街灯の間の闇の中から飛び出して来て、あっという間に男を取り押さえた。まるで、そこに別の世界へ通じる入り口があるかの様に。もちろん、対峙していた昭信も男も、近づく警官に気が付かなかっただけなのだろうけれど。昭信の後ろに隠れた女性は、へなへなと座り込み、昭信の足にすがった。昭信はお姫様を護れた使命感に浸っているような自分がおかしかった。昭信は女性の背中を優しくさすった。ふわりといい香りがした。
「え!じゃああの二人は兄弟だったんですか!兄弟喧嘩?!しかも男兄弟?!そんな・・。」
警察署で原口巡査長が事件について話した内容は、にわかに信じがたかった。犯人の男は女性、正確には女装した弟が気に入らず、男なら男らしくさせたいと、居場所を教えない弟をあの場所で待ち伏せ、着ている服を切り裂いて脅し、女装をやめさせようと思っていたのが今回の事件の動機だと言うことらしい。なんともばかげた事件に巻き込まれたものだ。昭信が淡い恋心さえ持ったかも知れないのは「俊夫」と言う夜になると女装する癖を除けば普通の会社員の男性だった。昭信はショックだった。
「最初の事件の時、弟さんは犯人が兄とうすうす感づいていたんだそうですが、警察には言い出しかねていたんだそうです。最初の事件で弟がこの辺に住んでいる事を知った兄は、ほとぼりが冷めるのを待って、またやらかしたと言う訳です。まあ、本人のプライベートな事情ですからね。女装の件はあなたには申し上げられなかったが、ご理解ください。」
昭信は「ああ、いや・・いや。」とあいまいに返事をするしかなかった。原口巡査長には、昭信がいい歳をして恋心を抱いていたと思われていたかもしれない。だが、若い頃の肉欲が絡んだ恋とはちがう。もしそうなら、もっと良く体を見て、女装の男と気が付いただろう。昭信は、もっと淡い憧れのようなものなのだと思った。子供の頃の、お姫様を護る気持ちの方がしっくりくると言い訳したかった。本当にいくつになろうと男はそんな気持ちを持っているものだと。
「そうそう、俊夫さんがあなたにえらく感謝していましたね。こんどお食事でもと言っていましたよ。もちろんディナーだと思いますけど。」
昭信は思わす叫んだ。
「きゃーっ!」
おわり