魔法の言葉
2015年

俊夫は生まれた時から体が弱く、熱ばかり出していた。

夫婦共働きの両親は手のかかる俊夫に、住み込みの家政婦を雇い面倒を見させていた。

俊夫の父親はその時代にしては学歴が高かったので、小学校さえまともに通っていなかった母親を、あからさまに下等な人間として扱った。そんな父親の家政婦への扱はさらにきつく、皆長続きしなかった。俊夫が保育園に通うころには8人目の家政婦が、通いで俊夫の世話にやって来ていた。

「俊君はお友達いるの?」

俊夫は熱ばかり出していたので、保育園は休みがちだった。

家政婦は保育園に久しぶりに行った俊夫を迎えに来た帰り道、川沿いの土手道で石ころによろけながら下を向いて歩く俊夫に、少し後ろを歩きながら声をかけた。

「・・天井。」

俊夫はつぶやくように答えたが、土埃を舞い上げた風が家政婦の身を捩じらせ、俊夫の声は彼女に届かなかった。

家政婦が夕飯の支度を終え帰ってしまうと、俊夫は家でひとり、家中に響くような時計の秒針の音に耐え、天井の木目模様を見上げ、空の上にある国や海の底に広がる世界へ旅に出かけた。夜中になると、いつも喧嘩で怒鳴りあう声に起こされた。不安で叫びたくなる時もあるが大丈夫。そんな時は布団をかぶり、耳を塞げば自分の心臓の音がいつの間にか朝を呼んでくれる。

そんな暮らしを繰り返しながら、保育園とおなじように病気がちで半分は休んだ幼稚園も終わり、俊夫はこの春から小学生になった。

「俊夫ちゃんね。おはようございます。茂木秀子といいます。今日からお世話になりますね。よろしくお願いいたします。ごはんを用意したので、そこにお座りください。」

そのキレイな感じのするおばあちゃんは20人目の家政婦だった。今まではみなおばさんだったが、今度の人はしわくちゃのおばあちゃんだった。見た目はしわくちゃなのに、俊夫には日向に干して取り込んだばかりのシーツのようなキレイでやさしい匂いがしそうに思えた。初めて会った他人に、嫌悪感が沸かなかったのはこれが初めてだった。俊夫はこくりと頭を下げると、用意された食卓の前に座った。

今朝も父親はまた夜中に出かけたか、帰ってこなかったかで、俊夫は顔を見ることも無かった。

母親は最近家には帰って来なくなった。理由は分からないが、朝まで何度も耳を塞ぎなおさなければならないほどの喧嘩があり、おそらくそれ以来ではないかと俊夫は思っていた。

朝も晩も一人きりで食卓に着くと、自分が何処に居るのか・・いや、居てよいのかわからなくなるような黒い不安に襲われた。そんな時は、頭のどこかに力を入れ、その不安を真っ白くするように集中しなければならなかった。だからそんな時、誰にしゃべりかけられようと耳にはいらなかったし、何をしてもおざなりになった。それがためか、今までの家政婦はみな俊夫が扱いにくく、変わった子供として接した。

だが今度は少し様子が違った。このキレイなおばあちゃんの、キレイな感じが気になり、それをよく見ようとすると、居場所の無い不安が隅のほうへ小さくなって行った。そして不安が小さくなると、自分が今何をしているのか意識ができた。こんな事は生まれて初めてだった。

俊夫はお膳に目をやった。おかずもご飯も特別な物は無かったが、なんとなくキレイに並んでいる気がした。いや、たぶん今までもそう並んでいたのかもしれないが、不安と対峙する事に夢中で、何もはっきりと目に入らなかったようだった。今までと大して変わりは無いのかも知れない目の前の食事が、今は食べ物として生き生き見えた。俊夫はお腹が鳴るのを初めて心地よく意識した。

「・・いただきます。」

蚊の鳴くようなかぼそい声で言い、箸を取った。

「はい。召し上がれ。ご挨拶ありがとうね。」

俊夫はそんな返事を初めて聞いた。今まで家政婦も両親も俊夫のいただきますに答えなど返したことが無い。それにも増して俊夫が驚いたのは「ありがとう。」と言われた事だった。今まで誰かにお礼など言われた記憶がなかった。しかも自分はただ単にお決まりの挨拶をしただけなのだ。

俊夫は心臓がどきどきした。

そのおばあちゃんの作る味噌汁はどこか違っている気がした。幼い俊夫には味の違いなど説明が出来る訳ではなかったが、椀を口のそばに運んでくると、それまで自分の体に必要以上な力が入っていた事を気付かせてくれた。椀の中に見えるわかめや豆腐は、踊るように動き回る味噌の小さな粒にゆっくりと押されるように揺らめいていた。立ち上る湯気はやさしい香りで俊夫の顔を暖かく包んだ。

俊夫はたった一口の味噌汁で、こんなにやわらかで幸せな気持ちになれることを初めて知った。味噌汁にぽつりぽつりと雨が降ったように水の輪が出来た。こちらを見てにこにこしながらもつられて涙をながしているおばあちゃんを見て、俊夫は自分が泣いていることに気がついた。気持ちは幸せなのに、なぜ自分は泣いているのだろう。俊夫は不思議に思いながらも、幸せな気持ちが逃げないよう、目を瞑った。

今までも俊夫はごはんの温かさをもっと感じたくて、ゆっくり食べたかった事が何度もあった。だが、いつも片付けたそうに不機嫌な顔で座りながらこちらを見ている家政婦や、いらいらとかき込むように食べる両親が気兼ねで俊夫も急いで食べていた。だがそのうち周りに合わせて食べるのが面倒になり、良く残しては父親に声を荒げられた。

「食べ物を粗末にするものじゃない!」

口癖のような父親の言葉に母親も、今までしていた父との口論はどこ吹く風で、重ねて言った。

「ばちが当たるわよ!」

俊夫には『ばち』の意味はよく分からなかったが、とにかく急いで食べなければ、両親のような大人たちには気に入られないのだということだけは良く分かった。

だが、今日初めて思った。こんな気持ちを持てるのに、その気持ちを台無しにして掻きこむように食べる方がよほどばち当たりではないかと。

俊夫はゆっくりと食べた。ごはんの一粒一粒が俊夫の口の中で、おかずと一緒に喜ぶように踊っていた。俊夫はそれが嬉しくて、いとおしくて、胸が切なくなった。出てくる涙を気付かれないように何度もぬぐった。おばあちゃんといえば、台所の流しに立って背を向けていたが、何度も俊夫を笑顔で振り返った。俊夫にとって、それは照れくさいようなこそばゆいような感じだったが、悪い気はしなかった。今までとは違い、俊夫の食事の進み具合を監視しているのでは無いと、おばあちゃんのキレイな感じのする笑顔からはっきりと感じ取れたからだ。

「あの・・。」

俊夫が流しに立って用事をしているおばあちゃんの背中に小さく声をかけた。

「はい。」

と答えると、おばあちゃんは流していた水道を止め、こちらを振り返って笑顔になると、前掛けで濡れた手を拭きながら俊夫の横にしゃがみ、俊夫の目の高さになってハンカチを出し、俊夫の目をぬぐいながらやさしい声で聞いた。

「なんですか?」

おばあちゃんが振り返り、俊夫の隣までやってくる間、ずっとおばあちゃんの目が優しく俊夫の目を見て笑っている事を、俊夫は目をそらさずに見ていられた。いままでこんなやさしく俊夫を見ている人がいただろか。両親を含め、大人が俊夫を見るときは、俊夫が悪いことをしないか確かめる時だった。だから俊夫は全身に力が入り、とても目を合わせる事はできなかった。だが、おばあちゃんは俊夫の方からずっと目をあわせていられるほど、俊夫は警戒心が湧かなかった。いや、むしろおばあちゃんの笑顔を・・そしてそのキレイな感じをずっと見ていたいくらいだった。俊夫はおばあちゃんの何がほかの大人とは違うのか、興味がわいている自分に不思議な気がした。

「あの・・ごめんなさい・・名前は何ですか・・、ごめんなさい。」

俊夫は上の空で聞いた名前が思い出せず聞きたかっただけなのだが、おばあちゃんが家事の手を止めてまで俊夫の所に来てしまったので、『そんなことで』呼んだのかと文句を言われるのではないか、名前をちゃんと聞いていなかった事を怒られるのではないか、なぜ泣いているのか聞かれるのではないかと、不安な気持ちが頭をもたげ、ちょっとおどおどした。いきなりおばあちゃんの笑顔が崩れ、泣き顔になった。俊夫は不意に強く抱きしめられた。

「いいのよ。そんなことで謝らなくていいの・・。ここはあなたの家なのよ・・。どんな暮らしがあなたをこんなに怯えさせたの?でももう大丈夫、できるだけ私がそばにいるからね。」

俊夫はとても懐かしい、こみ上げてくるような熱い何かが胸に広がった。また涙があふれて来た。この感じは昔味わった気がした。だが、それが何だったかは分からなかった。

おばあちゃんは俊夫から離れて自分の涙を拭きながら、また笑顔に戻って言った。

「・・・私の名前は『ひでこ』って言います。」

そう言いながら俊夫の涙をハンカチで丁寧に拭いた。

「大丈夫よ。俊夫ちゃん。なんでも思うとおりにやっていいのよ。なんでも私に言ってね。出来ることはなんでもするわ。」

「じゃあ・・・秀ちゃんって呼んでもいい・・?」

大人を『さん』を付けない、しかも苗字ではない名前で友達のように呼ぶなんて、俊夫にしては大冒険だった。父親が聞いたら大声で怒鳴られそうだったが、俊夫はどうしてもそうしたかった。

「もちろんよ!」

『秀ちゃん』はきらきらした笑顔になって明るく答えた。

「はい、俊夫ちゃん、お弁当ですよ。」

秀ちゃんはにこにこしながら水色のきれいな布巾にきちんとくるまれたお弁当箱を俊夫に手渡しながら、

「卵焼きもはいっていますよ。」

と耳元でちいさく言った。

秀ちゃんの卵焼きはここ最近、俊夫のお気に入りだった。

俊夫はにこにこと頷くと元気よく「行って来まーす!」と言って出て行った。

学校から帰ると、今日あった事を秀子に話すのが俊夫の日課になった。

俊夫はそれまでの引っ込み思案がうそのように、積極的にいろいろな話をし、いろいろな事を子供らしく質問した。秀子は堰を切ったようにあふれ出る俊夫の興味に、時には自分の知識で、時には図書の力を借りて応えた。俊夫はまるで、世界は自ら認識した知識から発する想像力の上にその存在があるという事を、既に知っているかに思えるほど、速度を持って世界を広げていった。

秀子がその日の家事を終えて帰ってしまうまで、俊夫は時計の秒針が刻む音や天井の木目模様もすっかり忘れることが出来た。秀子が帰った後、俊夫はまた秒針の音が大きくならないよう、すぐに寝てしまうことにしていた。秀子は俊夫に秒針の音の話を聞いて以来、俊夫が眠るまで俊夫の耳元で子守唄をうたって帰る事が日課になった。

「一人で怖くなったらね、魔法の言葉を心で唱えると、怖いのが消えていくのよ。」

秀ちゃんはどうしても早く帰らなければならない時、俊夫に魔法の言葉を教えてくれた。

俊夫は怖いときではなく、秀ちゃんが恋しい時に心で唱える言葉になった。

そんな生活が続き、俊夫は小学校3年生になった。

別れは突然やってきた。

その日朝起きると、父親と見たことの無い男と女が何も無い食卓に座っていた。俊夫は秀子の姿を探したが、何処にもなかった。

「俊夫。今日からお世話になる院長さんと寮母さんだ。ご挨拶しなさい。」

父親が俊夫を脅すように言った。俊夫は少しだけ頭をさげた。

「俊夫ちゃんね?光の里の寮母をしています恩田恵子と言います。これからよろしくね。」

女の人が下を向いて固まっている俊夫に声をかけた。

「院長の吉岡です。よろしくお願いします。」

俊夫は顔を上げられなかった。父親の説明に、交互にこの男女が合いの手や頷いた言葉を挟んだが、俊夫には良く分からなかった。ただ、父親に捨てられたのだと言う事はわかった。今までだって捨てられていたも同然だったけれど、まだ一人でいられる家があり、秀ちゃんがいた。

それらが全て奪われたのだ。

自分の何処が悪かったのだろう。

どこで間違えてしまったのだろう。

どうすれば許してもらえるのだろう。

俊夫は一生懸命考えたが、答えは分からなかった。どうしてよいか見当も付かなくなった俊夫は、ついに考えるのを止めた。俊夫は自分の足の指を見つめ、少し足の親指を動かしてみたりした。

(親指の爪ってこんな形をしていた?・・まあ、いいや・・・。)

俊夫はまるで魂の抜け殻になってしまったかのようだった。

俊夫は視野が狭くなったように斜め前方しか見ていなかった。だから院長と寮母と名乗った男女が、俊夫を何処に連れて行くのか皆目見当がつかなかったし、どこだろうともうどうでも良かった。父親の最後の言葉、「元気に暮らせよ。」の意味もよくまだ理解出来ていなかったが、なぜか頭の中を空虚に響き渡っていた。

さっき初めて会った男女の間に挟まれ、女の人の方に手をつながれ、引かれるままに歩いている内、不意に秀ちゃんの声がしたような気がした。頭のどこかのスイッチが入ったようだった。俊夫は胸が締め付けられるように苦しくなり、急に恐ろしさが湧いてきて逃げ出したくなった。俊夫はとっさに女の人と繋いだ手を強く振り払い、くるりと後ろを向いて全速力で駆け出した。

「あっ!」

不意を突かれ、男女は俊夫の駆け出す背中をぼうっと見ていた。

「ま、待ちなさい!」

男が言うと、二人して俊夫の後を追いかけた。

通りかかっていた町並みは、俊夫のような小さな体が逃げるには最適だった。俊夫は入り組んだ路地を右に左に駆け抜け、古い長屋の並びにあった小さな物置の中に隠れた。身を丸めて耳を塞ぎ、大きな音で聞こえてくる早打ちの心臓の音と呼吸音に負けまいと、秀ちゃんに教えてもらった魔法の言葉を心の中で何度も繰り返した。

俊夫は耳から手が離れてしまった事に気がつき、慌ててまた耳を塞いだが、小屋の中がすっかり暗くなっている事に気がついて、ゆっくり身を起こした。少し寝てしまっていたらしい。夏も終わり、秋がすぐそこまでやって来ていた。夕暮れの匂いに混じって、虫の声があちらこちらからしていた。俊夫はゆっくり注意深く小屋の外を覗いてみた。遠くに終わろうとしている夕焼けの空は、高い所がすっかり濃い紺色になり、ちかちかと気の早い星たちがまたたき始めていた。長屋の路地には人通りは無く、何処からかテレビの音や夕餉の匂いが漂って来た。俊夫は頭をもたげる不安を、秀ちゃんの魔法の言葉で押さえつけながら歩いた。あたりがすっかり暗くなった頃、ようやく見覚えのある辺りに出た。俊夫は家に向かった。

家は暗く、誰もいない様だった。玄関には鍵がかかっていたが、いつもの隠し場所を探すと鍵が置いてあった。俊夫は誰もいない家にようやく帰りついた。暗い部屋でじっとしていると、秀ちゃんが来る前の家のように、秒針の大きな音が俊夫を襲ってきた。俊夫は魔法の言葉を唱えると、少し安心できた。

(ぐ~っ)

突然お腹がなった。

俊夫は朝から何も食べていない事を思い出した。

台所に行き、冷蔵庫を開けると、昨日秀ちゃんが夕食に作ってくれた金平があった。

俊夫は手づかみで食べた。秀ちゃんがせっかく作ってくれた、こんなおいしい物を、手づかみで食べている申し訳ない気持ちが呼んだ気持ちなのか、この追い詰められたような現実が呼んだ気持ちなのか良く分からなかったが、情けないような気持ちがあふれ、俊夫は涙が出て止まらなかった。

俊夫は空になった金平の器を冷蔵庫の元の場所に戻すと、自分の部屋の隠れ場所へ入り込んだ。押入れの奥にある天井板を少しずらし、積んである布団を踏み台に中に入ると、真っ暗で何の音もしない空間がある。家の構造のどんな所なのか俊夫には良く分からなかったが、両親が喧嘩を始め、耳を塞いでもまだ聞こえてくる声が俊夫の胸をつぶしそうになった時、押入れに逃げて偶然見つけた空間だった。ここに居るとなんの音も声も聞こえてこない。

入るとき、前より少しきつい感じがしたのは、昔より体が少し大きくなったせいだろう。俊夫は安心すると、眠くなった。

俊夫は暖かくてやわらかい布団に包まれながら、にこにこと笑顔で覗き込む母親の顔を見ていた。布団の上から俊夫の胸の辺りを軽くぽんぽんと叩きながら、母親はささやくように子守唄を歌っていた。俊夫は少しうとうとしたが、すぐにはっと気がついて目を開けた。そこには母親はもういなかった。不安で母親を呼んでみるが、応える者はだれもいなかった。

俊夫がもっと小さな頃、毎日のように繰り返された光景だった。俊夫は秀ちゃんに教えてもらった魔法の言葉を繰り返した。言葉に込められた秀ちゃんの面影を感じ。心が落ち着いて来た。

(ああ、でもこの頃この言葉はしらなかったんだっけ・・。)

俊夫は目をさました。ぼうっと今見ていた夢を思い返そうとしたが、悲しい気持ちの残骸だけが心に引っかかっているばかりだった。

俊夫は暗い、音の無い隠れ場所から押入れへそうっと降りて耳をすました。やはり物音ひとつしなかった。俊夫は押入れの戸を少しだけ開けてみた。朝になったらしく、部屋に陽の光がさしていた。外から鳥の声がした。

(朝になったばかりかな・・。)

俊夫はだれもいない事を確認すると、部屋に降り、耳をすました。居間や台所からは物音も話し声も聞こえてこない。

(誰もいない・・。)

俊夫はそうっと居間を覗いてみたが、誰もいなかった。俊夫は台所に行き、食卓に座った。何処からとも無くお味噌汁の良い香りがしてきたような気がした。

(秀ちゃんのお味噌汁みたいだ・・。)

俊夫は胸が苦しくなり、魔法の言葉を心の中で繰り返した。

(そうだ!秀ちゃん、川の傍の土手公園の傍に住んでるって言ってた!)

俊夫は秀ちゃんが住んでいる場所に行って見ようと思った。はっきりと家は知らないが、其処に行けば会えるかも知れないと思った。

俊夫は朝靄の中、土手を上流に向かって歩いた。土手公園は其処から子供の足で10分ほど先だ。俊夫は靄を通してそそぐ朝日を受け、金色に輝く川面を眺めながら歩いた。土手道を川側に降りた河川敷には、犬を連れて散歩をする人や、ジョギングや体操をするが幾人かいた。

俊夫はやがて支流が合流する橋へ出た。俊夫の記憶では、この橋は土手公園より上流にあったような気がした。橋の下、本川との合流部分では補強工事が行われていて、数人の作業員が朝の準備を始めていた。

(おかしいな・・。まだ先なのかな・・行き過ぎたのかな・・・。)

橋の上で俊夫は少し迷っていた。

俊夫は河川敷へ降りて、今来た下流を良く見ようと思った。下流は緩やかに曲がっていたので、河川敷からは良く見渡せた。俊夫はもう少しよく見ようと水際まで降りたとき、朝露を含み滑りやすい枯れ草に足をとられた。

(あつ!)

俊夫は大きな音を立てて川に落ちた。支流が合流する付近は流れが複雑で速い。俊夫は慌てて水中でもがいたが、どちらが川面か川底かわからなくなった。俊夫は手足を必死に動かしながら魔法の言葉を心で唱え続けた。その時、一瞬顔が川面に出た。俊夫は思いっきり息をすった。だがすぐに、強い流れに手足も動かせなくなり、暗い水の底へ引き込まれて行った。

その寺は、閑静な住宅街にまぎれ、こぢんまりとした佇まいの小さな寺だった。その寺の小さな境内にある墓に花を供え、おだやかな春の日差しにゆらめく香の煙を感じながら、少し白髪の見え始めた俊夫は手を合わせた。ふと見ると、向こうから花を持った女性が、俊夫を見て会釈をしながら近づいてきた。

「俊夫さんですね?秀子の孫のあかねです。覚えていらっしゃいますか?」

「ああ、これはご無沙汰しております。」

「毎年命日にお参りに来て下さっていたのですね?いつもお供えがあり、もしや俊夫さんではと思っていました。御礼もいたしておりません事、お許しください。」

「いえ、とんでもない。ご親族の許可も得ず、私が勝手にお参りさせていただいています事ですから。どうぞお気になさらず。」

寺務所の前にある縁側に座り、あかねと俊夫は少し話をした。

「おばあちゃんも昨年で37回忌。時の経つのは早いものですね。俊夫さんは、今はどうしていなさるのですか?」

「私は今、私が育った児童擁護施設の院長をさせていただいています。」

「まあ、それは何よりですわ。おばあちゃんもとても喜んでいますわね、きっと。今だから話せますけど、おばあちゃんが俊夫さんを引き取ると言い出したとき、娘である私の母は猛反対しましたのよ。同じ年位の私という孫もいるのに、母にしてみれば自分と親子も年の離れた弟が出来るなんて受け入れられなかったのだと思います。でも結局、養子はかなわなかったけれど、おばあちゃんと暮らし始めた俊夫さんは素直な良い子だったから、すぐに母も何かと言い訳してはおばあちゃんの家に私を連れて遊びに行くようになって・・。」

「ええ、良く覚えています。いろいろお世話になりましたね。あかねさんにも、お母さんにもとても感謝しています。」

「そうですか・・。母が聞いたら喜ぶでしょうね・・。だって2年もしないうちにおばあちゃんがくも膜下で急死してしまっても、俊夫さんを引き継いで育てはしなかったものね。結局俊夫さんは施設に・・・。母は俊夫さんに恨まれても仕方が無いと思いながら、うしろめたい気持ちがあったのでしょう。施設の俊夫さんを訪ねることも無ありませんでしたものね。私も正直、それを確かめる事さえはばかられるような気持ちでした。本当にごめんなさいね・・・。」

あかねは声を詰まらせ、バッグからハンカチを取り出し、目頭を押さえた。

「時が経つのは本当に早いものですね。私も施設に行ってからは、あんなにご恩を受けたのにご連絡することも無く過ごして来てしまいました。申し訳なく思っています。ですから、どうぞお気を楽にお持ちになってください。」

あかねは涙をぬぐうと少し鼻声で聞いた。少し赤らんだ鼻と、潤んで淵を赤らめたきらきら輝く目は愛らしく、俊夫と同じ初老にはとても思えないほど若々しかった。

「あの・・。聞いても良いかしら・・。なぜ助けられた病院で、名前以外をお話にならなかったのですか?」

俊夫は少し上を向き、青い空にわき上がった、初夏を思わせる真っ白なまぶしい雲に目を細めながら息を吸い込んだ。そしてゆっくりと、決心したように話始めた。

「あの時、私は逃げて来たのです。ですから何も話してはいけないと思っていました。もちろん、後で私の父から秀ちゃん・・・今日はそう呼ばせてください、秀ちゃんも聞いたでしょう。施設に入れられそうになった・・・というより、母にも父にも捨てられたと言う事実から、逃げようと思ったのです。秀ちゃんの家を探して、一目秀ちゃんに会えれば・・私は一人でも生きて行けそうな気がしていたのです。川に落ち、気がついた時には病院の天井を眺めていました。秀ちゃんには会えなかったけれど、その時思ったのです。

(秀ちゃんが教えてくれた魔法の言葉があるじゃないか。僕はもう一人でも大丈夫なんだ。)

子供でしたから、具体的に一人で生きていく事なんか想像していた訳じゃありませんけどね。河川工事の技師さんが川に落ちた私に気付き、川の流れを読んで作業員に先回りさせ、私を助けてくれた事も、魔法の言葉が助けてくれたんだと思っていました。」

「そうそう、その河川工事技師の陣内さんが、たまたま秀子おばあちゃんの親しい隣人で、助けた子供の話をしたら、秀子おばあちゃんの顔色が変わったって言っていましたわ。おばあちゃん、血相を変えて病院へ行き、俊夫さんを見つけたとき、抱きしめて号泣しながら『自分が引き取ろう』って決心したって、何度も言っていました。」

「そう、それなら私も何度も聞きました。」

二人は顔を見合わせ、にこにこと微笑みあった。

「私は思うのです。小さな子供はまだどんな運命がその子を待っているか分からない。でも、自分では変えられない宿命、つまりどんな環境に生まれたとか、背が高いとか低いとか、男とか女とか等は、割合と早くに気がつくものです。ほとんどがそこであきらめのような気持ちを持つことが多いようです。そしてそのあきらめは運命を宿命と混同させ、運命も変えられないものと勘違いさせてしまいます。大事な事はここにあると思っています。もし、よりよい運命を切り開く魔法の何かをその子に与えられたら・・より良い運命を切り開く力がその子の大人になる道を支えてくれたら・・、そうしてそんな大人が増えたらきっと、この世はよりよい世界になると、私は本気で信じています。そしてその魔法の何かは、特別な物ではありません。特別な物ではありませんが、いざ教えたり伝えたりするのは誠に大変な代物です。」

「まあ、その魔法ってなんですの?聞いてもよろしい?」

「それは『愛』です。」

「まあ!」

あかねはちょっとはにかんだように声をあげた。

「青臭いですか?ははは。こうして言葉にすると、手垢のついた違った意味になってしまうかもしれません。なぜなら言葉は人によって解釈が皆違うからです。言葉では無い『愛』は確かに存在します。例えば子供たちにたった一滴だけでも、もしその『愛』を伝える事ができたら、その子はもう運命に立ち向かう大きな勇気を手にできます。私がそうだったようにね。

私は秀ちゃんが教えてくれた魔法の言葉を唱えると、心がやさしく温かく、そして強くなりました。その言葉を支えている大きな『愛』が、今まで私の背負った宿命が作り出す沢山の困難を切り開き、乗り越えさせてくれました。私は今、それを子供達に伝える立場を選びました。いえ、本当は子供達にだけではなく、施設の職員や子供の親たち、そして近隣の大人たちこそ知ってもらいたいと強く願っています。人が年を重ねると、なかなか『愛』を伝える事をしなくなります。いや、『愛』を見失いがちになります。肉親にとって『愛』は家族愛だったり、友愛だったり、ごく自然にある物のように見えています。ですが、それは実は『情』です。子供達にとって『情』は宿命と同じように見えやすいものですが、『愛』と勘違いする事も多々あります。『情』はいつも揺れ動き不安定で、頼るに心もとない細い糸のようです。でも『愛』は決して切れない、何者にも壊れることの無い太い存在です。でも多くの場合、この『情』との勘違いは『愛』を受け取る妨げになってしまいます。私は秀ちゃんにから受けた『愛』を子供達に伝えて行きたいと思いました。その大きな力は、必ずその子の生きる勇気になってくれるでしょう。大人たちには言いたい。たった一言でもいい。本当の『愛』を意識して、子供に声をかけてあげてくださいと。それは紛れも無くその子が死ぬまで宝物となるでしょうと。」

あかねは感動したのか、またハンカチで目頭を押さえていた。

「あかねさんは秀ちゃんのお孫さんだから、私の言うことは解ってもらえたのですね。ありがとう。」

少し傾き始めた日差しは急に弱くなり、まだ少し肌寒さを乗せた弱い風が通り過ぎると、夕餉の支度だろうか、何処からとも無くお味噌汁の香りがしてきた。

「なんだかお腹がすきましたね。」

俊夫が独り言のように言うと、あかねは少し照れながら言った。

「ええ。もし良かったら、家にお寄りくださいませんか?私の家族と夕飯でもいかがでしょうか?秀子おばあちゃん直伝の味噌汁をお作りしましょう。」

「なんと!そればありがたい!是非よろしくお願いします。」

二人が笑いあうと、秀子の笑い声も聞こえたような気がした。

おわり




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