2017年

「隣の古い一軒家にね、いつも身なりの良いおじいさんが住んでいるのよ。何処へ出かけるにもスーツを着て出かけるの。たぶん近くのスーパーにもその身なりで行っているらしくって、たまにその姿で買い物の入ったレジ袋を提げて帰ってくるの。」

めぐはカップに乗っているプラスチックのドームから突き出した、緑色のストローをくるくると回し、アイスラテにトッピングした生クリームを沈めながら言った。

「へぇ。おじいさんて幾つ位の人なの?」

「うちのお母さんが聞きだしたところによると、今年81歳になるって。」

「聞き出したって・・。なんか表現がおかしくない?」

「それが、そうでもないのよ。そのおじいさん、ものすごく無口で、ともすると不機嫌に見えるくらい無愛想なの。私の家のね、駐車スペースに立つと、隣の庭と縁側が見えるのね、その縁側に座るおじいさんに会釈をしても、何だか置物のように動かないのよ。まれにね、おじいさんと母が玄関先で行き会うらしいの。母はここぞとばかりに立ち話に持ち込もうとするらしいのだけど、すぐにおじいさんは『失敬』と言って行ってしまうらしいの。結局一度に一つしか質問できないそうなのよ。」

「でも、なんでめぐのお母さん、お隣に興味があるのかなぁ?」

「まあ、興味があるって言えばそうなのかもしれないけど、女性の習性みたいなものなのよ。ほら、女性は子供を産むという大切な使命があるでしょ?だから自分の居る環境については、いろいろ確認して置きたくなるのよ。」

「なるほど・・。わかったようなわからないような・・。」

「うふふふ・・。」

「それで、歳の他にも何か聞き出せたの・・って言っていいのかな・・その、なぜいつもスーツで、どこへ出かけるのかとか。」

「お母さんによるとね、お仕事はとっくに引退していて、今は昔から借りている今の一軒家に年金で暮らしているらしいわ。ご家族はいらっしゃらないようなことを言っていたって。」

「なんだかんだ結構話し聞いているんだね。」

「私が生まれて今の家に引っ越してきて以来聞けたのはこれくらいなんだから、殆ど聞いていないに等しいわ。」

「でも、家族関係や収入関係を把握するって、よっぽど親しくないとなかなか無いから。本人のアイデンティティにかかわる部分でもあるからね。」

「そうね。そう言えば、出身やご家族の事は、実は記憶があいまいだとも言っているって聞いたわ。子供のころに満州にいたらしいのだけど、どうやって引き上げてきたかも覚えていないらしいの。それこそアイデンティティを形成するかもしれない頃を忘れてしまうって事があるのかしら。」

「子供から思春期にかけての出来事や考え方は、本人のアイデンティティに深くかかわると言うからね。・・ゼミでまさに今やっている処だね。」

「どういうこと?エリクソンの発達段階のこと?」

ちょっと首をかしげながらまっすぐ見つめるめぐに、俊哉は身を乗り出した。

「形成期に戦争が与えた影響って大きいよね。でも、具体的にどうなのか、聞いてみたいじゃない。」

「どうかしら・・。」

「・・そうだね。ごめん。興味本位ではだめだね。でも、戦争なんて映画とゲームの中でしか知らない僕にとって、たまにテレビなどで耳にする戦争体験の話って、なぜか今一つピンとこないんだ。」

「・・・・。」

「間違っているかもしれないのだけれど、テレビ等で話している話は、何故か肌感覚っていうのかな・・。それはそれで悲惨だったり、悲しいことだったりするのだけれど、何かこう・・届いた感じがしないんだ。」

「‥届かないって?」

「何だかうまく言えないのだけれど、実感がないというか・・映画やテレビを見すぎているせいなのか・・。それはそれで物語にのめりこむのだけど、どこか絵空事な感じが抜けないというか・・。」

「わかる気がするわ・・。私も同じ感じがあるの。たぶん実際に体験したわけじゃないから、しかたないのかもしれないのだけれど、乱暴な言い方をすれば、どこか脚色されているような気がしてしまうの。もちろん、そんな事は無いのはわかっているし、もしお話している方や、例えばテレビだったら制作している側の意図に、そんな事があれば『胡散臭い』感じがするから・・それとは全然違うのだけれど・・。」

「そうだよね!そうなんだよ。『胡散臭い』のはすぐわかるけれど、この『届かない』感じは全然ちがうんだよね。わかってくれる人がいてよかった!」

少し興奮した俊哉は、ちょっと声が大きくなり、周りの客の失笑する視線を浴びた。俊哉ははたとそれに気づいてちょっと小さくなった。

「わかったかどうかはわからないけど、なんとなく共感できる気がするの。」

「いいんだ!違う人間なんだから100%わかるなんてあり得ない事は望んだりしないもの。」

「そうね。それでも同じ部分があるのを見つけられるのはうれしいものね。」

「そこでね、だからこそおじいさんに直接話を聞いてみたいんだ。もちろん、話してくれるとは限らないし、もしかしたら、ものすごく図々しく人の心へ土足で踏み込むような真似をしているのかもしれないけど、それでもやはり、思春期の入り口で、まだ人格形成に深く関わってしまうかもしれない時期の、戦争という魔物が何を残したのか聞いてみたいんだ。」

「そうね。でもね、おじいさんがまず協力してくれるのかどうかが、私にはまず重要な課題なのよ。誰かの人生を知るのは、その人に深く関わっても良いと、覚悟が必要だと思うの。」

「うん。それは僕も思う。通り一遍では僕の知りたいことはきっと何も届かない。テレビや映画と同じになってしまう気がするんだ。聞くからには覚悟がいるのはよくわかる。」

「でもね、正直、どうやってその気持ちが伝わるようにお話を聞く機会を持てるか、よくわからないの。」

「そうだ!お母さんに会わせてよ!」

俊哉はまたちょっと大きな声をだした。周りの客はまた二人をみてくすくすと笑った。

「ねぇ・・勘違いされてるみたいなんだけど・・。」

めぐは少し顔を赤らめて恥ずかしそうに言った。

「ああ!ごめん、ごめん。とにかく、お母さんに会わせて・・。」

俊哉は顔の前で合掌してひょこひょこ頭を下げた。周りの客がまたくすくす笑った。

「『お母さんにあわせて』とか大きな声で言うから、誤解されたわ。」

「あ、そうか。ごめん、ごめん。気が付かなかった。あはは。」

「いいわ。お母さんには私から事情を話して相談してみるわ。」

翌日、めぐは明るい顔でゼミに現れた。

「母が何かおいしい物を用意して、ご招待する事にしたの。まだおじいさんには声をかけてないけど、明日食材が手に入ったら、声をかけると言ってくれたわ。」

「ありがとう!じゃあ、明後日くらいということだね?」

「ええ、そうね。また明日、お声がけの結果を兼ねて連絡するわ。」

ゼミでは末森教授が期せずして、ディスカッションのテーマを「戦争時の心理」とした。

「第二次世界大戦当時、アメリカ軍のある統計では、敵と遭遇して発砲できたのは15%しかいない。根本的に人間が同胞である人間を殺すには、相当な心理的圧力を克服する必要がある。例えば、この心理的圧力を乗り越えて敵を殺すように兵卒を仕向けるには、どんな事が必要だろう。」

日本最大の右翼、「日本翼賛会議」の重鎮と言われる太田信彦教授の薫陶を受けた森末は、いつも軍隊の兵卒の心理について独自の持論を展開していた。このゼミは社会心理学がメインであるから、決して逸脱しているとは言えないが、俊哉もめぐもこの右翼的な発想は、ちょっと辟易していた。

「やがて退役すれば社会復帰が待っている、職業軍人ではない徴兵された兵卒に対して、そういったメンタルのすりこみは、やがて社会を危うくしませんか?」

ゼミでは俊哉とわりと意見の合う大橋智也が手を挙げて発言した。

「ふむ。徴兵制度はまた別の機会に議論するとして、今回は君が言うように、職業軍人としてならどうだろう。殺人という心理的圧力を軽減する為には?・・石橋君。」

「はい。同胞としての人間という認識が明らかになる条件を除くというのはどうでしょうか?敵を人格として認識できないほど遠い場所から攻撃するとか。」

戦闘ゲーム好きの石橋直哉が答えた。

「なるほど。遠距離からの砲撃や航空機による爆撃がそれに当るな。確かに砲撃手や爆撃手は銃で一人をねらうスナイパーより、圧倒的に心理的圧力が少ない。だが、今回は敵と遭遇した兵卒の訓練として考えてみたまえ。はい、大橋君。」

「憎しみや嫌悪、家族や仲間に対する危害への恐怖は、殺人に対する心理的圧力を軽減すると思います。普段から自国民の優越感を高揚して置くと、他国がいつ敵国になっても心理的な圧力を比較的簡単に下げられるんじゃないですか?自分より下等な他国民ってね。それに、外交手段の限界を喧伝し、外国からの危機感を常に煽って置く事も重要ですね。」

俊哉は言葉を続ける大橋が、普段知っている彼とはかけ離れた思考から話しているような奇異さを感じた。

「なるほど。ナチス党の手法だね。そのベースがあれば、戦争下、敵兵を殺傷する事と、殺人という心理的な障壁は別な感覚になるというわけだね。つまりヒトラーが理念として掲げた・・・・。」

森末はいつものように、また独自の理論展開を始めた。大橋などはそれをいつも過激に批判していた。

「大橋、一体どうしたんだ。いつもと言っていることが違うじゃないか。」

俊哉は講義のあと、大橋にきいてみた。彼は外交を最後まであきらめない事が、種としての人類として、地球に生き残るすべだという考えを持っていた。いつか誰かの「弱者」としての障害者は自然にいれば死に絶えるのだから、生まれる前の検査を徹底して除くべきだとの意見に猛反対した事があった。「そんな考え方は、弱肉強食という間違った教育がもたらした弊害だな。自然界は適者生存。人間はその中で『社会』として自然に適合するような戦略を取った。個体は関係ない。種としてどう存在を残して行くか。命として生まれる人間は全て可能性として守る事が、人間という種が取ったこの『社会』という戦略なんだ。」そんな大橋だから、軍隊の訓練に殺人を軽くする心理操作を織り込むなど、声を荒げて否定するはずだった。

「いや、僕なりに見えた現状の日本の状態を述べたまでだよ。政府がナチのまねしてやがるから。教授は気づくかなと思ったんだけど、大好きな我が闘争方面へ興味が行っちまったから、わからんかったようだね。期待外れ。右翼は単純だな。自然界を牛耳れると思っていやがる。」

大橋は独り言のような調子で言った。俊哉は「ふ~ん。」とわかったような返事をした。

「ねえ大橋君、明日、戦争体験者の・・と言っても子供のころの体験だけど・・、話を聞く機会を家で用意するのよ。良かったら一緒にどう?・・誘っていいわよね。」

めぐは確認するように俊哉を見た。俊哉は小さくうなずいた。

「いや、遠慮しておくよ。人間は傷を治癒するようにできているんだよ。もし、体験を語れるようになったというなら、傷が癒えたということだろう。記憶の傷をいやす方法は、それを肯定して美化するしかない。癒された記憶は、この運命を逃れない。」

「それじゃあ戦争の悲惨さを伝える方法が無いじゃないか。」

「だから戦争は無くならない。戦争を始めるやつは大抵権力者だ。そいつらが自分の立場を守るために嘘をついて始める。歴史を見れば明らかだ。今だって権力者におもねって『感動ぽるの』な歴史を語りやがるばかが後を絶たない。ばかの代表のような物書きさえいるご時世だ。だが人間は歴史を美化せず伝える方法を持っていない。だから歴史からではなく、今、種として戦争の意味を考えるしかない。でなきゃいずれ人間は滅びる。」

大橋が大袈裟に言っているのではない事は何となく俊哉にも分かったが、「美化」せず事実を語ってくれる人もいるのではないか。

「風化という事があるじゃないか。美化せずともいずれ痛みは風化するのじゃないか?だって時が解決するって事もあるじゃないか。」

「君は体が何もせずに傷が風化するとでも?風化というのは、地球上の万物が時と共に壊れてゆくようにできている法則を、先人が簡素に言った言葉だ。風化こそ事実とは違った形になるという事だよ。傷が深刻で痛ければ痛い程、本人以外に実感させることはできない。しかも痛いうちは思い出す事さえ苦痛だ。だから人に話すにはこの痛みを治さないといけない。治すには美化するしかない。だから本当の事を聞くのは無理だ。ま、お誘いは感謝するが、そういうわけだ。悪く思うな。」

「そうか・・・残念だ。」

俊哉は本当に残念で大橋にそう言った。

俊哉はその夜、夢を見た。日本軍の軍服を着た男が、目の前に立っているスーツの男を、気合とともに腰に佩いた日本刀で一刀両断に切った。俊哉は息も荒く飛び起きた。

(驚いた・・夢か・・。)

俊哉はその夢の、何とも言えない悲しさと虚しさの気分が抜けず寝つけなかった。気が付くと窓の外が明るくなってきた。

俊哉はベッドに半身起き上がると、抱えた膝に顎を乗せた。

(戦争って考えてみたら、人間と人間の殺し合いなんだよな・・。悲惨すぎる・・。戦争体験の話、絵空事程度に感じているぐらいが丁度いいのかもしれない。怖すぎる・・。)

俊哉はもう一度布団をかぶった。

結局寝付けなかった俊哉は、用意を手伝うつもりで朝からめぐの家に行った。初めて見るめぐの家だった。駅からは少し歩くが、閑静な新興住宅街と、昔ながらの一軒家が隣り合わせているような街並みの、その境のような場所にあった。煉瓦色の小さな門扉にはタイルに毛筆で書いたような表札があった。

「いらっしゃい。初めまして。めぐの母のやよいです。」

「初めまして。更科俊哉と言います。いろいろありがとうございます。」

「いいのいいの。いつもめぐがお世話になっています。さあ、上がって。めぐ、ご案内しなさい。」

「やあね。お母さん少し気取ってるの?」

「ちょっと!からかわないで!おほほ。」

「なによ、その笑い方。」

「めぐ!やめてったら!」

仲のよさそうな母娘に、あの夢から俊哉に続いていた気分が少し和んだ気がした。

「おじいさん、お名前を高梨秀治さんというのね、お昼ごはんに家に来てくださる事になっているの。うちは父が単身赴任だから、最初は遠慮なさっていたんだそうだけど、母が逆に男の人が隣に住んでいらっしゃるのは何かと心強いから、仲よくしたいとかなんとか言って了解を得たのよ。」

「なによ、めぐ。あたしがうまいこと言ったみたいに。高梨さんからそう言ってくださったの。お父さんが単身赴任してましてって言ったら、それは心細いでしょうって。だからお隣に男性が居てくださるだけで心強いから、お近づきにお昼でもどうかって言ったのよ。」

「ほらね!」

「なによ!」

明るい笑い声に、俊哉はすっかり気分を取り戻していた。

「ごめんください。高梨です。本日は図々しくまいりました。」

食事の用意ができた頃、玄関先に高梨がやって来た。うわさのスーツ姿だ。

「いらっしゃいませ。あら、もっとラフな格好でもよろしいのに。さあ、どうぞお上がりください。」

出迎えに出たやよいが明るい声で高梨を、テーブルセットの用意が出来ているダイニングまで案内してきた。昼食にすき焼きという贅沢なメニューに、高梨はちょっと臆しているようだった。

「こんにちは。更科俊哉と言います。こちらのめぐさんと同級生で、同じゼミを取っています。」

「ああ、高梨です・・。どうぞよろしく・・。」

濃紺のスーツに暗い臙脂のネクタイ、白いシャツ姿は、まるでひと昔前のサラリーマンのようだが、グレーがかなり混じった短髪を撫でつけた髪に、端正だが深い皺が寄せた目じりの高梨には、とても似合っていた。むしろ甚平やスエットシャツ等、この年周りの人がよく着る服は高梨の雰囲気からは想像がつかなかった。

やよいのタイミングの良い鍋奉行の采配で、皆おいしい昼食を楽しんだ。しかし高梨は聞いていた通りの無口で、決して無愛想ではないが、聞いたことに短文で答え、余分な遊びが無い感じだった。それでもめぐとやよい母娘は、いろいろ質問の仕方がさりげなく、短文とはいえ「Yes、No」では終わらせない質問を繰り出すのはさすがだった。

「じゃあ、満州からはおいくつで引き上げたんですか?」

話が昔話になり、やよいが高梨に聞いた。

「それが・・。生まれたのは満州だというのですが、そこでの生活も、どう引き上げてきたのかもさっぱり覚えていないのです。はっきり記憶が始まるのは、港での荷役の仕事を始めたあたりからで・・。」

「それはおいくつの時なんですか?」

「昭和11年の生まれで、働き始めた年が昭和22年ですから11歳という事になりますか・・。」

「まあ。まだ小学生じゃありませんか。大変な時代でしたね。でも良く小学生に仕事がもらえましたね。」

「荷役ですから・・。体力があれば誰でもよかった。」

「その時、ご両親やご親戚は?一緒に暮らしていらしたんですか?」

俊哉が箸を動かしながら何気なく聞いた。

「・・いや・・一人でした。戦争孤児と言われていました・・。両親や家族の事はあまり覚えがなくて・・。」

高梨は箸を置き、すまなそうだった。俊哉は箸を置き、居住まいを正した。

「高梨さん。実は私は戦争体験のある方に、人生観やその後の生き方にどんな影響があったかお聞きしたくておじゃまさせていただいています。学生の勉強を助けると思って、どうかご気分を害されませんようお願いします。」

俊哉は立ち上がり、一礼した。めぐも立ち上がり、それにあわせた。

「ああそうですか。はい、それとなくこちらの奥様に聞いています。ご協力いたしたい気持ちはあるのですが、どうもすっかりそのあたりの記憶がありませんでして・・。その、荷役を始めた辺りからは覚えているのですが・・、もちろん歳のせいもあり、ぼけてきてはいますが。申し訳ない。」

高梨は深々と頭を下げた。

「いえいえ!そんな。あやまらないでください。僕のわがままなんですから。」

「まあまあ、いいじゃありませんか。楽しくやりましょう。さあ、そろそろデザートにしますか?めぐちゃん、ご用意手伝ってね。」

やよいが明るくあいだに入った。高梨はしばらくじっとうつむいて、何か考えているようだった。めぐとやよいがデザートのくずきりを運んできた。うつむいていた高梨は、はたと顔を上げ、俊哉に言った。

「家に古い鞄があります。荷役を始めた頃からありますから、その頃中身は見ていたのでしょうが、どういった荷物なのか覚えていません。やったことは無いのですが、引き出して、中のものを見れば何か思い出す事があるかもしれません。どうでしょう。私の家に来てもらえませんか?」

決心したように、高梨はまっすぐ俊哉を見つめて言った。

「ほんとうですか!いや、うれしいです。ぜひ、高梨さんのお話を聞かせてください。」

夕方、高梨の家に俊哉とめぐは訪れた。古いが、きれいに住んでいて、むしろあまり生活感が無かった。かなり古い皮の鞄が居間のテーブルに出してあった。高梨に促され、二人はテーブルに着いた。高梨は立ったまま、鞄を開け、中のものを取り出した。

茶色く変色した手紙らしきものと、紺色に所々茶色くなった白い水玉の巾着、それに古い皮の財布が出てきた。他には鞄に何もなかった。

「ああ、これだけですね・・・。」

高梨は茶色の紙を開いてみた。

昭和21年11月付けの引揚者証明書だった。氏名は高梨秀治、元住所は奉天市となっていた。職業・同伴家族ともに「無」となっていた。

「これについては何となく覚えているんです。これで何某かの援助を受けられていたと思います。家族は無しになっています。たぶん生き別れたのか死に別れたのか・・・はっきり覚えていません。確かに一人で港に着いた記憶があります。」

高梨は次に巾着を手にした。中には何も入っていなかった。最後に財布を見た。中から小さな錆びて黒くなったスプーンが出てきた。

「何でしょうか・・。全く記憶が無い・・・。金目の物でも無いような気がしますが・・。」

スプーンをためすつがめつ眺めている高梨が、少しよろけた。

「大丈夫ですか!」

俊哉は咄嗟に椅子を立ち上がり、高梨を支えた。

「すみません。ちょっと目がまわりました・・。」

俊哉は少し顔色が悪い高梨を座らせると、めぐが台所で汲んできた水を勧めた。高梨はそれを一口飲むと、深いため息をした。

「申し訳ない。何も思い出せないのに、情けないです。」

「こちらこそ申し訳ありません。ちょっと無理させてしまったようですね。ご気分が戻るまで居ますが、今日はもう、帰ります。また、よろしかったらお話聞かせてください。」

「いや、ご心配なく。私は大丈夫です。何か思い出したらご連絡します。」

俊哉とめぐは礼を言い、高梨家を後にした。

「無理させちゃったみたいだね。君にもごめんね。」

「なんで謝るのよ。大丈夫よ。」

「うん。じゃ、このまま帰るから、また何かあったら連絡して。」

「わかった。」

俊哉は家に帰ると今日会った高梨という老人の行動を思い返していた。何か記憶が抜け落ちてしまってはいるが、行動に出ている部分は無いだろうか。俊哉はそのまま寝落ちてしまい、電話の音で起きた。夜11時を回っていた。めぐが泣きながら電話をしてきた。

「俊哉君!大変なの。高梨のおじいちゃんが・・おじいちゃんが・・。自殺を図って、いま救急車で運ばれて行ったの・・!母が付き添っているの・・。」

俊哉は全身の血の気が引いてゆくのが分かった。

病院を聞いた俊哉はあわてて家を飛び出した。

「どういうことなんですか?何があったんです?」

病院の集中治療室の待合に、やよいがいた。

「めぐから聞いた高梨さんの体調の事もあって、夜ちょっと様子を見に行ったのよ。電気は消えていたし、10時を回っていたから寝てしまったかなと思ったんだけど、変なにおいがしたの。炭の匂いだと咄嗟に思ったわ。庭にまわって覗いたら、カーテンの隙間から火のついた七輪が見えたの。めぐにすぐ警察に連絡してもらって、私は玄関のガラスを割って中に入ったの。練炭に火がついていて、高梨さんは居間で横になっていたわ。窓という窓を全部開けて救急車を呼んだのよ。めぐには家で警察の対応してもらって、私は救急車で一緒に来たの。でもなぜこんなことに・・どうしてなのか私にも良くわからないわ・・・。」

やよいは緊張がほぐれて来たのか、しゃべる都度、涙声になっていった。

高梨は明け方には話ができるまで回復したが、医師によるとまだ予断をゆるせない状況だ。

「あの、高梨さんがお話があるそうです。」

ICUの看護師がやよいを呼びに来た。「一緒に来て。」やよいは俊哉の手を引いた。

ベッドに酸素マスクをつけた高梨が、こちらを見て少し会釈をした。意識は戻っているようだった。近くに行くと、高梨はマスクを難儀そうに外した。

「ご迷惑を・・おかけしてしまいました・・。」

良く見ると、高梨は目に涙をいっぱいに浮かべていた。

「高梨さん・・何があったの・・気が付かないうちに、私たちがひどいことをしてしまったのかしら・・。」

やよいは泣いていた。

「とんでもありません・・。そうではなくて、私は生きていてはいけないのだと思い出したんです・・。」

高梨の目から大粒の涙があふれて来た。

「更科さんまで来てくださったのですか・・。申し訳ありません。」

「高梨さん。一体何があったのですか・・。もしやあの鞄になにか・・。」

高梨は息を深く吸った。そして吐く息はみは嗚咽になった。

子供のように泣きじゃくりながら高梨は話始めた。

「僕、大変な事をしてしまった。あのスプーン・・。戦争に負けたと言われ、ロシア軍が攻めてくるからって、僕、母とあかんぼうの妹と3人で奉天から逃げだしたんだ。あてなく逃げるのは死ぬ思いで、何処へ行っても敵だらけに見えたんだ。食べ物も寒さをしのぐものも無くて、一緒に逃げていた日本軍の将校が、『乳飲み子は港まで持たない。これで楽にしてやれ』と言ったんだ。妹に母と僕で将校がくれたスプーンを使って将校がくれた毒薬をのませた。僕は妹が苦しがって声を出さないよう、口を押えてぐったりするのを待ったんだ・・。ふにゃふにゃに力が抜けた妹の口は、内出血で赤黒くなっていた。母を見ると母も自分で自分の口を押えて内出血していた。その後、何日もさまよって、ようやく港にたどり着いたんだ。でも、いつ来るともしれない引揚船を待つうち、母が倒れてしまって・・。港に集まった人の中には軍医がいて薬をくれたんだ。僕があのスプーンで薬を飲ませたんだ。そしたら母は血を吐いて死んでしまった。あまりの事に僕、気を失い、今日まで思い出せなかった・・。でも今思い出した!あのスプーンで僕は家族を皆殺してしまった!僕もあの時死ねばよかった!死ねば!死なせて・・!お願いだどうか、死なせて!」

高梨は興奮してベッドから起き上がろうとした。看護師が押え、警報が鳴り、医師が怒鳴り声をあげた。「あんたがた何をした!いいから出ててください!レボトミン用意して!」

警報音が鳴り響く中、俊哉とやよいはICUを出た。

「・・やっぱり僕が原因だ・・。何という事をしてしまったのか!」

「いいえ、あなたのせいでも高梨さんのせでも無いわ。まぎれもなく、戦争という狂気があったという事だわ。あんな事を11歳の子供が経験したのよ。そんな事覚えていたら、まともに生きられない。記憶が無くなって当然だわ。どんなにおそろしかったでしょう。どんなにつらかったでしょう。想像もつかない・・・。」

やよいはハンカチで顔を覆い、嗚咽した。

数か月が過ぎた。高梨はまためぐの家の隣りで前のように暮らしている。あの後、高梨はまた記憶が無くなり、体は回復して退院した。俊哉とめぐは問題の荷物をまた元に戻し、もう高梨に昔の事を聞くのをやめた。高梨の入院騒ぎは、暖房のための七輪の事故という事になった。

「お前の言う通りかもしれない。戦争の悲惨さなんてほとんど伝える方法が無いのかもしれない。」

俊哉は大橋に言った。

「そう。だから種をよく見るしかないんだ。人間ていう種をね。自然に対する驕りは種の絶滅を早めるだけだから。」

「なあ、先人の遺産としての記憶を受け取れないのに、自然界で生き残る為に社会という選択をした人類は、その社会を少しは進化させられたのだろうか。」

大橋は頭を掻きながら言った。

「さあな。」

「この社会を進化させなければ、人類は滅びるしかなさそうだ・・。」

おわり




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