龍の喉
2018年

6歳になった祥の住んでいるマンションは、突然崩壊したバブルの波が、そこで凍結したように開発を急停止した地域の境目に立っていた。祥の部屋がある26階のベランダからは、下に広がる開発から取り残された古い長屋の一帯が見えた。奥深い未開の地で作られた絨毯の模様のような、継ぎ接ぎのトタン屋根がいろいろな方向を向いて並んでいた。

長屋の屋根の間には、複雑に曲がりくねって不思議な形をした、溝のように見える狭い道があった。街灯のないその道は、夜になるとその時在宅であろう家々の窓や玄関から漏れた明かりに照らされたところだけがベランダから見え、毎日形を変えているように思えた。

いつものように酒の回った父親が母親に向かって怒鳴り始めると、祥はそっとベランダへ出てサッシを閉め、家の中が静かになるまで、ベランダの柵の間から見える、窓明かりでまだらに照らされた狭い道が、曲がりくねって暗い長屋の屋根の間を這っている様子を何かに例える一人遊びをした。

(あそこにはいつもの龍がいる・・。こっちは歩く人。)

龍の喉にはそこだけ明るくて赤い光が、毎日のように灯っていたので、いつもすぐに見つけられた。祥は何度もそれを見ているうちに、あの龍の喉には魔法の国への入り口とか、何か特別なものがあるのではないかと思い始めていた。

祥が8歳の時、父親が家を出て行った。不思議と祥には何の感情も湧かなかった。ただ、祥が寝てから母が帰って来るような生活になった事が、何か重い靴を履かされたような感じがした。一人家にいる祥は、窓から漏れる明かりの当たり方で形が違って見える道を眺め、いつもの龍を見つける事が寝る前の日課になっていた。

祥が9歳になったある夜、まだ祥が寝る前に母親が帰ってきた。めずらしい出来事に気持ちが高ぶった祥は、玄関から部屋に入ってきた母親の方へ走り寄ろうとしたが、後ろから入ってきた少し小太りで冷たい目をした男を見てあとずさりした。

「祥、あっちに行ってなさい。」

母親が祥を見ずに小さく鋭く言った。祥は跳ねるようにその場から隣の和室に入ってふすまを閉めた。祥はしばらく小さな床の間の隅に座り座布団を抱えていたが、隣の居間から聞こえてくる聞いたことのない母親の甘えた声に、知らない世界が祥の目の前に現れたような怖さを感じた。座布団を頭からかぶり、体を丸めたが、一向に体の震えが止まらない。体の向きを変えようとして床の間の掛け軸を蹴ってしまった。大きな音とともに掛け軸が板張りの床の間に落ちた。祥はますます体を丸めた。

ガラリとふすまが開き、かなり酔ってろれつの廻らない男が、ふすまによりかかったまま凄んだ目であたりを見回した。

「うるせえぞ!小僧!」

男は床の間の隅で震える座布団目掛け、足蹴を何度も繰り返した。母親が後ろから男を抑え、何事か甘えた声で言うと、男はふらふらとまた居間に戻って行った。座布団の上からだったので、蹴られた右肩と右腕、右の横腹は耐えられない痛さではなかったが、恐怖で泣き声も出なかった。前に出て行った父親も、たまに同じような事を祥にしたことがあった。だがしばらく経てば父親は寝てしまい、何事もなかったように目覚めた。きっとこの男も同じだろうとは思ったが、初めての男に蹴られたのはやっぱり怖かった。祥はここから逃げて、龍の喉に当たるあの赤い光に行ってみようと思った。きっと龍の喉にふさわしい何かがそこにはあり、この怖い気持ちを吹き飛ばす力を与えてくれそうな気がした。祥は震えながら気が付かれないようにそっと這って玄関へ向かった。

暗い道は上から見えているのとは違い、どこにどう繋がっているのか良く解らなかった。だが狭い路地から時折見える、空にそびえる祥のマンションが目印になり、毎日見ていた俯瞰図が頭に浮かび、何となく方向を選べた。

長屋の入り口に門や木戸は無く、長屋を突き抜ける、ぽっかり空いた空間があった。中を覗くと、長い間踏み固められたせいで、小さな裸電球の弱い光でも土がピカピカ光る土間の廊下があった。その両側は直接部屋のドアが並び、反対側に抜けるとまた長屋の入り口になっていた。そんな長屋がいろいろな向きで建ち並んでいて、迷路のようだった。祥は一軒一軒入り口から入り、並んだドアの前に、時折乱雑に置いてある、たくさんのサンダルや靴を踏んでは少し驚きながら、反対側の入り口から出て次の長屋の入り口へと、縫うように歩いた。

四、五軒目だったろうか、入り口を入ると向こう側の赤い光で土間の廊下が赤く照らされた長屋があった。

(龍の喉だ・・・)

祥はそっとその光に向かって一歩ずつ踏み出した。その長屋の土間は、でこぼこしているのにつややかで、出っ張っている部分はさらにピカピカだった。そしてそこに赤い光があたり、赤黒い血のしずくのようだった。祥は足の裏にごつごつ当たる、思ったより硬い血のしずくによろけそうになりながら、ゆっくりとその赤い光を目指した。

何軒かの長屋の壁や入り口を赤く染めているのは、赤く塗られた大きなシャッターの閉まった倉庫の上部から飛び出た庇に下がっている、大きな真っ赤に光る丸い電灯だった。シャッターの横には上部がガラス窓の小さなドアがあった。祥はそっと近づいて窓から中を覗いた。中にはテーブルの前の椅子に座っている白い長いあごひげの、薄い茶色のローブを着た老人が見えた。祥はマンションを出てから初めて人を見た。長屋の土廊下を歩いていると、明かりのついた窓の奥からテレビの音や、食器の音などは聞こえていたが、人には出会わなかった。祥は老人がこちらを見た気がして驚き、ドアの前でしゃがみこんだ。

ゆっくりとドアが開いた。

「君・・どこから来たんだい?この辺の子じゃないね?」

老人がしゃがんでいる祥に声をかけた。祥はちらりと老人を見て、赤く照らされた庇と長屋の屋根に切り取られた空に、少しだけ見えるマンションを指さした。

「一人で?」

老人はうつむいてしゃがんでいる祥に、自分もしゃがみながら聞いた。祥は小さくうなずき、膝を抱えた腕に顔をうずめた。

「おやおや、それは大冒険だったなぁ。・・道に迷ってここに来たのかい?」

祥は顔をうずめたまま首を左右にふり、決心したように顔を上げて聞いた。

「あの・・、ここは特別な場所?」

老人は少し考えたような顔をした。

「・・なぜ、そう思うんだい?」

「だって、ここは赤く光る龍の喉だから・・・。」

「龍の喉?・・。」

老人は少し空を見上げ、うなずいて祥を見た。

「きみの家からここが見えるんだね?」

祥は小さくうなずいた。

「そうか・・。」

そう言って老人はひげをなでながら祥をまっすぐ見て何か考えていたが、おだやかな声で言った。

「そう、ここは特別な場所だよ。」

老人は優しい目をして祥を覗き込んだ。

「でも、どうして特別な場所へ来たかったんだい?」

理由を尋ねられて祥は、自分ではそうと思っていなかった不安な気持ちが、急に喉の奥を詰まらせ、涙が溢れてきて言葉にならなかった。老人はやさしくしゃくりあげて泣く祥の背中をさすった。

「そうか、ごめん、ごめん。理由を聞いたりして。いいんだよ、理由なんかどうだって。さあ、中へお入り。美味しいお茶を入れてあげるよ。特別な場所のお茶だ。すぐ元気になるさ。」

老人は祥を優しく倉庫の中へ招いた。まだ泣いていた祥は立ち上がり、中へ入ることを少し躊躇したように両足をドアの境の手前で揃えて止まった。そして意を決したように片足を上げ、魔法の国の入り口に足を踏み入れた。

涙を平手で拭いながら薄暗い建物の中を見回すと、赤く塗られた小さなトラックのような車に乗った、見慣れない機械のような、やはり赤く塗られた大きな何かが目に飛び込んできた。よく見るとそれの上部には硬い触覚のような物が生え、胴体から生えたいくつもの白い太い管が、機械を取り囲むように巻かれていた。祥はきっとこれは秘密の魔法の機械に違いないと思った。

機械のある向こう側の壁には、グレーに見えるマントと、丸みのある帽子が掛けてあった。祥は今でもたまに見る、ネズミの主人公が魔法使いの師匠の帽子を被っていたずらをするアニメを思い出した。もっとも、アニメの帽子は月や星の模様がある三角帽子だったし、マントは鮮やかな青だったが、あれはアニメ用に変えてあったんだろう。やっぱり本物は何となく本物らしい貫禄みたいなものがあると祥は思った。そしてこの老人はこれを守る役目を、長い長い気の遠くなるような昔から担っているのだとも思った。いや、もしかして本物の魔法使いなのかもしれない。ここで魔法の国の入り口を守る、魔法使いの番人なのかもしれない。そして、その事には触れないことが、きっと何か大事な決まり事なのだとも思った。なにしろ、ここは龍の喉の中なのだから。

祥を自分が座っていた反対側の椅子に座らせ、入り口からまっすぐ突き当りの流しがある簡単なキッチンで何か用意をしていた老人は、少し持ち手が斜めに付いた、青いガラスとグレーの陶器が混ざったような不思議な色合いのカップに入れた、西洋のお菓子のような甘い香りがするお茶を運んできた。きっと魔法の成分が入っているから甘い香りがするのだと思うと、祥は少しわくわくした。

「君は猫舌かね? 」

老人が聞いた。祥には『猫舌』の意味が良くわからなかったが、たぶん魔法の世界の住人の特徴を言っているのだろうと思った。

「猫舌だと飲めないお茶なの?」

まっすぐな目で祥が聞いた。老人は少し考えたふうだったが、にこりとすると祥の前から少しカップを遠ざけながら言った。

「そう。このお茶は猫舌にはすぐに飲めない。こうしてしばらく置いておけば飲めるようになるがね。猫舌か試してみるかね?」

自分が魔法の世界の住人と同じ特徴があるのか試したかった祥は、うなずくとカップを手元に引き寄せ、恐る恐る啜ってみた。お茶はとても熱かったが、啜りながらそっと飲んだので大丈夫だった。ほんのり甘い味、うっすらと舌に感じる刺激、鼻にぬけるお菓子のような香りが、ここは魔法の国だということを、誇らしげに示しているようだった。

「僕、猫舌じゃなさそうだ。」

「そうだね。」

老人は嬉しそうにほほ笑んだ。ちょっと残念だった祥もほほ笑んだ。

「ほうらね。少し元気になった。」

「うん。このお茶のおかげみたいだ。何ていうお茶なの?特別な薬草を使っているの?」

「シナモンとリコリス、アップルを使ったお茶だよ。」

アップル以外、聞いたことがない名前だった。やっぱり魔法の薬草に違いない。アップルだっておとぎ話の定番じゃないか。祥はますますここが魔法の国の入り口だと確信していった。

「さて、それを飲み終わったら君の家までとても早く行ける道を案内しよう。また特別な場所に来たくなった時、迷わず来られるようにね。」

祥は黙って下を向いた。特別な道を教えて貰えるのはとても嬉しかったのだが、もう少し魔法の国に居たかったし、帰るのはちょっと怖かった。老人は祥のその表情から気持ちを読み取った。

「ゆっくり飲んでいいんだよ。何事も自分の速度が大事だ。覚えておくとよい。」

祥は魔法の師匠の魔法の言葉だと思った。顔を上げ深く頷くと、きらきらした目で老人をまっすぐに見つめながら言った。

「ありがとう!・・シドって呼んでもいい?」

老人を魔法使いの師匠だと確信した祥は、アニメの魔法使いの師匠の名前の一部で呼んでみたくなった。たしか魔法の世界では本当の名前は使えないのだ。

老人は満面の笑みで言った。

「なぜシドなんだい?」

「魔法使いの師匠はそういう名前・・・」

そこまで言いかけて、祥はしまったと慌てて口に両手を当てた。魔法のことは言ってはいけないのだった。

「ごめんなさい・・・。もう言葉にしないので、許してください・・。」

魔法の掟に触れた罰を受けなければならないと思い、祥は再び涙目になってきた。

「おやおや。大丈夫だよ。君は今、幸運を運ぶ言葉を二つも言ったじゃないか。」

「・・え?」

「では、君の事はなんて呼べばいいかな?マーリンかな?」

祥は顔を輝かせた。マーリンはイギリスの有名な魔法使いだ。子供のマーリンが魔法使いの修行をするドラマを見たことがある。祥は大きく頷きながら聞いた。

「幸運を呼ぶ言葉って何?僕、二つも言ったの?」

老人は大きく笑いながら祥の隣に来て座り、祥の頭をなでながら言った。

「君はさっき『ありがとう』と『ごめんなさい』と言った。心のない言葉は全く効かないが、心からのこの言葉は強く幸運を呼ぶ言葉なんだよ。これも覚えておくとよい。」

「はい。」

祥はニコニコしながらシドになった老人を見つめて頷いた。老人はマーリンになった祥の頭をクチャクシャとなでた。

龍の喉から祥のマンションの入り口まで、長屋の裏のどぶの嵌め石をたどって簡単に出られる道を、老人が前を行きながら祥に教えた。途中、大きなネズミが行く手をふさいだ。

「シド!なんかいるよ!魔物じゃない?!」

祥が小声で小さく叫んだ。

「しっ!マーリン、大丈夫だ。もし怖かったら、自分の太陽を信じてみなさい。君の勇気は君という太陽が照らしている。君以外、何物もそれを消すことはできない。それは自分にしか消せない。だから君が大丈夫なら、相手は何もしてこない。」

マーリンは息を吸って小声で唱えた。

「大丈夫。僕は大丈夫。」

怖さがすっと抜け、勇気が湧いてくると、ネズミが可愛く見えてきた。

「ねずちゃん、どうした?」

そう言いながら祥が一歩踏み出すと、ネズミは大慌てで草むらへ逃げて行った。祥はなんだか可笑しくなってちょっと笑った。

「マーリン、君は勇気の意味が分かったんだね。ありがとう。」

シドが嬉しそうに祥の頭をなでた。

本当に近道だった。虫の声、草いきれ、たまに臭うどぶの臭さを感じる狭い星空の道が、思いもかけず急に開けた。その先にマンションの入り口があった。祥はマンションの入り口に立ち、振り返るとそこから見えるその獣道のような長屋の狭間へ消えてゆく老人の背中に手を振った。一人でマンションに戻った祥は、部屋に入る恐怖を消す魔法を使うため、部屋の玄関の前で深呼吸して心に唱えた。

(大丈夫。僕は大丈夫・・。)

恐怖が消えた気がした。

マンションの入り口には番号式のセキュリティがある為、よく鍵をなくす母親は、部屋の玄関には鍵をかけなかった。祥はそっとドアを開け、耳をすました。部屋の電気はついていたが、物音一つしなかった。忍び足で中に入ると、誰もいなかった。いつものように押し入れに入り、布団の間の窮屈な場所にもぐりこんだ。体中を布団で囲まれているとほっとした。祥は目をつむって、さっきまで居た特別な場所と、甘い香りの魔法のお茶、シドの言葉を思い出し、布団に優しく抱きしめられ、とても幸せな気持ちになった。祥はそのまま眠りについた。

それからというもの、祥は母親が冷たい目の男と帰ってくる度、気が付かれないうちにそっと龍の喉へ出かけた。老人の教えてくれた道は、とても簡単にそこへ行けた。真っ暗なその道も、マーリンになった祥には何も怖くなかった。老人は祥が来る度にいろいろな魔法の薬草だろうものが入ったお茶や、やはり魔法の薬草が入っているだろうお菓子をくれた。

「これはカモミールとオレンジブロッサムが入っているんだよ。眠れないほどの不安になった時にいいんだ。そしてこのクッキーにはカカオとオレンジピールが入っている。これも気持ちが安らぐ。」

老人は祥が何かに追われた時にここへ来ると察していた。だが、祥が自ら話始めない限り、聞くことはしないでいた。祥は祥の力で自らの運命を切り開かねばならない。もちろん、こんな幼い子供にはとてつもなく重く、苦しい事だろう。上手くは行かないかもしれない。それでも彼がこの先もずっと幸せに生きていくには、今の境遇を自らの方法で乗り越えなければならない。さもないとずっとずっと人の力ではどうしようもできない境遇という魔物のせいにして、彼の人生を重く暗くしてしまうだろう。それだけではない。乗り越えず、淵に沈められた思いは、姿を変え、いつか彼に囁いて来て、それと知らない彼の人生に大きな影響を与え、また同じことを自分の子供や周りに繰り返してしまう。老人は自分の経験から、自らの運命を切り開かずに来た大人に指導された子供は、独立が難しくなってしまう事を知っていた。たとえその大人が善意だったとしても、大人だからと上から目線で押し付ける価値観が子供に教えるのは、階級であり、その階級に従った依存でしかない。そんな子の将来は、結局また目上に価値を依存し、年を取って目上が少なくなれば、世間などというありもしない幻想に価値観をゆだねてしまう。そしてそんな大人に指導された子供もまた、幽霊のような世間という名の幻想に、右往左往させられる輪廻を繰り返すのだ。

子供は自ら学びたい事、したいことを選び、大人は持てる経験と全能力をかけ、それを手助けする事が、自らの社会も含めた幸せな未来の為に重要だし、子供がそれらを持てるまで、忍耐強く支えてゆくことは、大人の最も重要な義務だと老人は考えていた。もちろん老人にも厄介な情というものがあり、かわいそうで何度も自ら手を下してしまいそうになった。かわいそうという情は、相手の命を下に見たときに生じる厄介ものだ。たかが相手に経験がなく、自分にはあるという、ただそれだけの拠り所で優越感に浸りたくなる自分勝手な情なのだ。先に生まれたか後に生まれたか、男か女か、自分では何の努力もしていない事柄を、自分が偉いと馬鹿馬鹿しい勘違で道を語る愚民の根拠は、本当はこの勝手な恥ずかしい情なのだ。だが、老人は祥に魔法使いの師匠だと思われているのだ。そう簡単にその思いを砕くわけには行かなかった。祥が満足行くまでその役割に徹して、これを楽しもうと思った。老人はそれほどに祥と出逢え、命と向き合える事の幸せを、こころから感謝していた。

ある日の事、母親がまた冷たい目の男と帰って来た。そっと龍の喉へ出掛けようとした祥を、その男は待ち伏せていた。咥え煙草で凄む男は、立ちふさがるように玄関の前にいた。男から煙草の匂いに混じって濃い酒の匂いがした。

「小僧!どこ行くんだ!」

男が低い声で唸るように言った。祥は大急ぎでベランダへ逃げた。体が震えた。追いかけようとする男に、母親が追いすがった。

「いいから~、ねぇ、気に入らないなら外いこう?どっかで美味しいもの食べさせてよ。」

サッシを勢いよく閉めた男は、しぶしぶ母親と外へ出掛けていった。玄関の閉まる音が、ベランダにいる祥には地獄の銅鑼のように聞こえた。

部屋にはもう誰もいない事は分かっていたが、すぐには動けなかった。祥はしばらくベランダの隅で泣きながらうずくまっていたが、遠くからけたたましいベルの音が聞こえてきた。閉まったサッシの向こうから、少し明るい光が揺らぐのが見えた。なんだろうと思い、サッシ越しに部屋を見た。中にはオレンジの悪魔がすすと煙を吹き、サッシの窓の上のほうを黒くすすけさせていた。

(勇気の言葉・・勇気の・・。)

祥はオレンジの悪魔が消えるように、勇気の言葉を思い出そうとしていた。

(そうだ!大丈夫。大丈夫だ。)

それを唱えようと、息を吸い込もうと思ったが、不意に焚火のような匂いにせき込んでしまった。

祥は部屋へ入ろうとサッシに触り、その熱さに悲鳴を上げた。何が起きているのか良くわからなかったが、何か危険が迫っているのだと思った。ベランダから見える赤い龍の喉を見ながら、祥は叫んだ。

「シドー!シドー!」

龍の喉が割れて小さな赤い光がこちらに向かってくるように見えた。

(きっとあれは魔法の光だ!きっと助けてくれる!あそこまで魔法で行ければ!)

空飛ぶ魔法のやり方など知らなかったが、祥はベランダからその光に向かって飛ぼうと思った。柵に上ろうとした時、サッシのガラスが大きな音とともに割れ、熱い黒い煙が噴き出して来た。

「熱い!熱い!」

たまらず祥はベランダの隅のエアコン室外機と隣の家の仕切りの間に身を小さくして隠れた。ごうごうという大きな音と、強く焦げた臭い匂いがして、だんだん気が遠くなってきた。遠くからたくさんのサイレンが聞こえてきた。

「マーリン!マーリン!がんばれ!マーリン!」

シドの長いひげと、涙を浮かべた目が祥の目の前で揺れていた。

「マーリン!気が付いたか!良かった!」

シドは祥を抱きしめた。

「シド・・。助けに来てくれたんだね・・。」

シドは倉庫にあったあの魔法のマントと、魔法の帽子をかぶっていた。マントも帽子も祥が思っていたようなグレーではなく、銀色だったが、所々黒くすすけて居て、オレンジの魔物との闘いが、いかに困難だったかを表していた。よく見ると、シドの白いひげも少し焦げ、顔にもすすが付いていた。

祥はマンションの入り口から少し離れたドライブウエイの入り口にある草むらまで運ばれ、そこに寝かされていた。ふと横を見ると、たくさんの赤いランプが点滅している赤いトラックが沢山見えた。消防車だと思った。

そのトラックに紛れて龍の喉にあったあの赤い機械が、胴体から生えた白い管をたくさん張り、それらを目いっぱい膨らませてうなりをあげていた。すべての消防車にその管から何か送られているようだった。きっとあの機械の魔法で、普通の消防車から魔法の消防車へ変えてくれるのだろう。

「ああ、やっぱりオレンジの悪魔だったんだね。あの魔法の機械を使ってシドが退治してくれたの?ありがとう、シド。ありがとう・・。」

祥の意識がまたなくなった。老人はまた祥を抱きしめた。

「マーリン!!マーリン!!」

祥は大きな火傷を負い、2か月の間生死をさまよった。

老人は長い消防の経験があり、この密集地域の中にある消防団の建物の管理と、操作の難しい新型ポンプ車のオペレーションを任されていた。あのとき、消防本部から通報を受ける前に老人はいやな感じがしてマンションを見上げた。煙の見えるベランダに祥が見えた気がした。防火マントとヘルメットを身に着けた老人は赤いシャッターを開け、密集地帯の防災用に開発された新型ポンプ車の赤い点滅灯を光らせてサイレンを鳴らし、祥のマンションに一番乗りした。途中本部からの通報無線で火災の部屋を知り、その階に上がり、部屋へ躊躇なく飛び込み、見えていた通りベランダで祥を発見した。何かの運命を感じずにはいられなかった。もう少し遅かったら、部屋には入れなかっただろう。祥が身を隠したベランダ右側の部屋には防炎の壁紙と防炎カーテンがあり、老人が助けに入る時間を稼いでくれていた。

たばこの火の不始末で火事を出した冷たい目の男は、事情聴取中に暴れだし、結局麻薬取締法で捕まり、母親はアルコールと薬物の中毒で医療刑務所へ入院した。

祥は退院後施設へ行くことになっていたが、老人は母親の説得に医療刑務所へ通い詰めた。ようやく祥の母親は、自分が退院するまで祥を老人に預けることに合意した。

日の光が明るく差し込み、心地よい風が、すこし開けた窓のカーテンをそっと揺らしている病室にやって来た老人は、一番窓側のベッドの仕切りカーテンをそっと開けた。

「やあ、マーリン。ご機嫌はどうだね。ほら、君の好きなアップルシナモンティーを持ってきたよ。サクランボのゼリーも付けてね。」

「ありがとう!シド。今日も僕はご機嫌さ!夢を見たんだ。シドとあの赤い機械で魔物を退治に行く夢。僕は僕の太陽でまぶしいくらいに光る勇気で前へ進むんだ。」

老人はきらきら光る祥の目を、まぶしそうに微笑みながら、何かを確信したようにうなずいた。

おわり




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