黄金の記憶
2009年

 黄金の記憶

昨晩、遅くまでパソコンに向かっていたせいか、重くはれぼったい感じが目の周りから頭の芯に向かって張り付いていた。夕べは久しぶりに食卓を囲んだ父親と、将来についてちょっとした口論になり、眠れなくなってしまった。父親は決まって「おまえ、これからどうするつもりだ。」と、質問の姿をした強い希望を投げかけて来る。勿論、「見合いでもいいから結婚しろ。」という意味だ。私も「仕事、まだやめたくないのよ。」と、質問の答えの姿さえしていない返答で、その希望を否定する。その後はいつも表面の、言葉とは違う感情を交わす口論となってしまう。今の仕事にさして情熱があるわけでもなく、かといって父が言うような結婚は想像の範疇になかった。確かに結婚に適齢期があるとすれば、とおに過ぎているのかも知れないが、結婚には漠然としたあこがれのような感覚以外はあまり現実味が無かった。それなりに気があるのかもしれない男友達もいたが、どうも積極的にこちらからアプローチする気にはなれなかった。

月曜の朝から会議をする予定は全く憂鬱だった。特にこんな2月の寒い朝は、その気分に輪をかけた。会議が始まるまでにはまだ少し時間があったので、会社の近くに開店したコーヒーショップで、はっきりしない気分を振り払ってゆく事にした。最近話題のそのアメリカ生まれのチェーン店は、明治時代から建っている古いビルの1階をモダンに改築し、広い道路に面したガラス張りの壁から、明るい日差しが差し込む開放感を持っていた。店に入ると、店員の元気な挨拶が重い頭をすこし和らげてくれた。

出来上がったカプチーノ・コーヒーの乗ったトレーを持ちながら、ガラス張りの壁沿いに、少し背の高いマホガニーで出来た椅子が並ぶカウンター席の一番端に目をやった私は、はっとしてトレーを落としそうになった。そこには、まるでその人自身が発光しているように、ガラス越しに差し込む早春の柔らかな朝の日差しを受けて、栗色の長い髪や透けるような肌が黄金色に輝いている少女が、少し首をかしげ、頬に人差し指をあて、目をつぶって物思いに耽っていた。その憂いをふくんで寄せられた眉の物悲しさは、そこだけ回りの喧騒とは無縁のように空気が重く沈んでいるようだった。その空気の感触とは裏腹に、濁った頭が冴えて行くような不思議な感覚にとらわれて立ち尽くしていた私に、誰かが軽くぶつかった。

「まっ!ごめんあそばせ。」

その肌の浅黒い初老の女性は、そんな所に茫と立っているから悪いのだと言う感情を、その言葉にきつく詰め込んで、汚物のように私に投げつけた。私は少し気分が悪くなったが、「失礼・・。」と何も感情を込めずに言い返し、再び先ほどの少女に目をやった。しかしそこにはマホガニーの椅子が、日差しを受けて明るく輝いているだけだった。店内を見回し、出入り口を見たが、その少女の姿は既に無かった。私は私の頭を冴えさせたあの空気の感触が、その席にまだ残ってそうな気がして再び席に目を戻した。そこには私に汚物を投げたあの女性が座っていた。私は思わずその驚きを、「あっ!」と小さな声にしてしまった。その女性は大きく開けた口にブラウニーを放り込みながら私を睨んだ。

その日、会議は自分でも驚くほど主導権を握って進められた。なぜか今日は良くひらめき、普段はだらだらと、意見というよりは資料書類を朗読しあうような会議が、自分の発言で活性化してゆく快感を味わった。

「今日、なんか憑いているの?社長が感心していたよ。すごいじゃない。」

同僚が冗談まじりに言った。普段なら単純に褒められたと感じるはずだった。なぜか今日はその言葉に少し悪意が詰められている事を感じた。ふんわりと汚物臭がしたような気がした。ちょっと引きつってしまった愛想笑いを残して、私は化粧室へ駆け込むとスプレーのコロンを撒いた。

その日遅く家に帰ると、母はとっくに寝ていると言うのに、めずらしく父がまだ起きてテレビを見ていた。去年、父は定年まで波風無く勤め上げた役所を退職したのだが、相変わらず生活のリズムはそのまま過ごしていたので、同じ家に住みながらあまり重なる時間帯が無かった。

「だたいま。めずらしいわね。こんな遅くまで。」

居間のソファに座っている父に、ダイニングを通して後ろから声を掛けた。

「なつかしい映画をやっていた。黒人青年と修道女の映画なのだが、ずいぶん若いときだったから、見たことも忘れていた。なのにその頃を思い出す。不思議だな・・・ずいぶん時間が経っているのに・・・。」

父は振り向きもせずため息混じりに言った。なんだかその背中が悲しそうだった。私はコートを脱いでダイニングの椅子に掛け、お茶の用意をしながら答えた。

「でも、そう言う事ってあるわよ。急にその頃の記憶が蘇るって事。きっかけは音楽だったり、映像だったり色々だけどね。」

めずらしく私と父は、そんなとめどない事に話がはずんだ。若い頃の話しをする父は、いつもの実直だが嫌味な物言いの人物では無かった。そこには私の全く知らない人格が居た。私は『あなたは誰?』と聞きたくなる衝動を抑えながら、父とふたり、お茶を飲みながら深夜遅くまで話しをした。

私は昨日の少女がまたそこにいるのでは無いかと、少し朝早くその店に出かけた。カウンター席の一番端のその席には、昨日と同じく柔らかな日差しが降り注いでいたが、席の主は少し小太りの学生風の男だった。彼も栗色の髪をしていて、少女がそこにいたときと同じように日差しを受けていたが、黄金色には輝いてはいなかった。むしろ光を吸収しているように、すこし周りの空気も暗くしているような気がした。私はちょっとがっかりしたが、その席が目に入る位置のテーブル席に腰を下ろし、何気なくガラス越しの外に目をやった。少し冷たく引き締まった明るい空気の中を、人や車が活発に行き来する様子を眺めていると、世界中で生活しているたくさんの人々の波動で心に喜びが満ちてくるような感覚が襲ってきて、喉からすこし笑いがもれそうになった。こんなことは初めてだと思うのだが、なぜか懐かしい気がした。私は慌てて下をむき、自分は何をやっているのかと自問しながら額に手をおいて気持ちを少し落ち着け、髪をかき上げながら再び顔をあげてガラスに目をやった。そこにうっすらと黄金の光が見えた。私はちょっと驚いてカウンター席の一番端を見た。その席には先ほどの学生の代わりに昨日の少女がまた、黄金色に輝いていて座っていた。彼女はうっすらと目を開け、物憂げにガラス越しの外を見ていた。その様子は悲しそうでもあり、大切な人を心底気遣っている時の表情にも似ていた。(大切な人を心底気遣っている時の表情?)私はそんな表情を見たことがあったのだろうか?なぜそんな風に思うのだろうと、ちょっと混乱した気分に襲われてきた。その時、私の後ろのレジ付近で女性の叫ぶ声がした。

「ちょっと!子供に触ったら危ないじゃないですか!ここは禁煙ですから火の付いたタバコを持って歩くのはやめてください!」

若い母親らしい小柄な声の主は、後ろ手に5歳くらいの小さな男の子を抱え、体つきだけで相手を威嚇しているような大男に立ちはだかっていた。角刈りに派手なブランドのマークがプリントしてあるトレーニングウェアの上下を着たその男は、自分の存在を認めない世の中への憎しみを、いつでも暴力で表現してやろうじゃないかと開き直っているような雰囲気で周囲の客や店員をすくませていた。母親の決意が伝わったのか、小さな男の子は泣きもせず、小さな手で母親の手をしっかり掴み、母親の陰から大男をまっすぐ見つめた。私には、男から黒い蒸気のような薄いもやが立ち上り、白く消えて行くように見えた。私は目をこすった。男はタバコを足元に捨て、履いている黒いサンダルでもみ消すと、鼻の奥で小さく音をならして踵を返し、店の外へ出て行った。母親は後ろを向いて男の子を抱き上げ、そのまま近くにあるテーブル席に力無く腰掛けた。

「ママ、怖いおじさんゴメンって。ねっ?ゴメンって。大丈夫だよ。ママ。」

力が抜けたような母親の膝の上で、その小さな男の子は母親の頬をなでながらそう繰り返した。

「うん。そうだよね。ゴメンって言ってたよねきっと。ママ、あなたがいたから平気だったよ。」

母親は男の子の澄んだ瞳を見つめながらそう言うと、やさしく頭をなでた。私には心なしか店内が黄金色に明るくなったような気がして、例の少女を見た。だがそこには誰も座っていないマホガニーの椅子だけが、日差しを受けて明るく輝いていた。

その晩、小さな子供の私と母が、手を繋いで暗い道を歩いている夢を見た。ずっと先に明るい光が見えていて、そこへ早く行きたいと思うのだが、母と繋いだ右手が重くて前へ進めない。私は母にもっと早く歩くように言おうと思い、母を見て驚いた。母の向こう側に、大勢の白い女の人が、やはり手を繋いで遠くまで並んでいた。母はそれが重くて早くは前に進めない。驚いた私は手を離して駆け出そうとしたが、両手が離せない。私は自分の左手にも沢山の白い女の人が手を繋いで並んでいる事に気が付き、驚いて大きな声をだし、夢から醒めた。怖かったというより、手を離せなかったことが何故かとても悲しかった。私はベッドに起き上がったまま、両手で顔を覆ってしばらく泣いた。

朝起きると、まだ昨晩の夢の気分を何となく引きずっていた。ふっとあの黄金色の少女を思い出し、またその店へ行ってみた。昨日と同じ席に付き、誰も座っていないカウンター席の一番端にある例の席マホガニーの椅子を眺めた。薄曇のせいか、まだいつものように日が差していなかったが、雲が晴れ始めたのだろうガラス越しの外は明るさを増してきていた。昨日と同じように冷たく引き締まった空気の中を、たくさんの人や車が活発に行き来していた。雲が切れ、日差しがマホガニーの椅子に当たり始めた時、斜め後ろのテーブル席から差し迫ったような女性の声が聞こえてきた。

「お母さん!お願いよ。」

「お母様、娘さんのおっしゃる事、聞いてあげてくださいな。私たちの学会はお二人のような社会的に弱い立場の方達をお守りして、お幸せになって頂く為にご奉仕させて頂いているのですよ。」

「母娘二人暮しが弱い立場なのは、あんた達みたいにそれを食い物にしようとしている奴がいるからじゃないのかい?」

「お母さん!お指導の先生に失礼じゃないの!」

「お母様、誤解なさらないで。私たちは光明導師御始祖の理想の元、多くの出家家族を擁護し、共同生活の中に多くの幸せを育てています。どうか娘さんのように趣旨を理解なさって、私たちの学会で暮らしましょう。」

「そうだよお母さん、お母さんも幸せになろうよ。」

「私はおまえがそんな所を出てきてくれたら何より幸せなんだ。」

「お母さん!」

「お母様、娘さんと暮らす事が大事でしょう?今の家は娘さんの名義なのですよ。娘さんが、学会で暮らすにはそれを売ったお金が必要なのですから。あなたがそこに住んでいるから、娘さんはそれが出来ないでいるのですよ。娘さんの言う事を聞いて、学会で一緒に暮らしましょう。ね。承諾書に署名してください。」

「・・待ってくださいな。娘と二人で話をさせて貰えないかい?」

「いいでしょう。では私は向こうの席に移りますから、ゆっくりお話なさい。」

指導の先生とよばれたその女性は、母娘がすわったテーブル席が、よく見える場所に移った。私はそのタイミングで何気なさを装い後ろを振り向き、今の会話の登場者をちらと見た。初老の品の良さそうなきれいな白髪の『お母さん』と、後ろに縛った髪の鬢に、少し白い物が見えなければ、学生かと思えるほど童顔で化粧気のない『娘』が、小さなテーブルを挟んで向かい合っていた。『お母さん』は両手を伸ばし、テーブルの上に乗せて組んでいた『娘』の手を掴んだ。下を向いていた『娘』が顔を上げると、その足元から何かが走り去ったような気がして、私は立ち上がりそうになった。だが、周りの他の客がその走り去った何かに気がつかないはずがない。平然としている周りの客を見て、私は気のせいだと自分に言い聞かせ、立ち上がる事を押しとどめた。店内が少し明るくなったような気がした。私が視線を戻そうとした時、マホガニーの椅子に座っている黄金色の少女が目に入った。少女は目をつぶり、透き通るような桜色の唇に人差し指を軽くあて、まるで「静かに・・」と言っているようなしぐさのまま、日差しを浴びて黄金色に輝いていた。少女が突然現れたような気がして驚いている私に、すすり泣く声が聞こえて来た。

「ごめんよ・・・。年甲斐もなく泣いちゃった。お前の手を握ったのは久しぶりなものだから・・・お母さんなんだか間違えていたのかねぇ・・・。お前の手、もっともっとしっかり握っていてもいいかい?」

「お母さん・・。」

「お前の事、全然見ていなかったんだね・・・お母さん。ごめんよ・・・。お前の手、いつのまにかこんなに年をとって・・・。私は何をしていたんだろう・・。ごめんよ・・。」

「お母さん・・、お母さんの手、しわくちゃ・・・。私・・。」

「・・いいんだよ。黙っておいで。お母さん、よくわかった。私がお前を産んだんだから。お前が本当にしたいなら、そうしよう。でも、その前に一度だけ家に戻っておいで。あの家でもう一度だけ、手をつないで暮らしておくれ。もう、お母さん、手を離さないから・・。」

娘さんの嗚咽が聞こえて来た時、私には黄金色の少女が、少しだけ目を開けたように見えた。うしろの席では先ほどの母娘のテーブルに、指導の先生と呼ばれる女性が戻ってきたようだった。

「さあ、この続きは学会へ行って話しましょう。さ、お母様、さあ・・。」

「触らないで!」

私は娘さんの鋭い語気に驚いて振り向いた。母親の手を取ろうとした女性の手を激しく振り払ったらしい娘さんの姿があった。

「・・とっ、とにかくここを出ましょう。」

冷静を装うそのご指導の女性の言葉を待たずに席を立った母娘は、帰り支度を始めた。

私は店を出てゆく3人連れを見送ると、また視線をマホガニーの椅子に戻した。誰もいないその椅子は、少女の光を残しているように日差しを浴びて明るく輝いていた。私は周りの客が怪訝な顔をするほど勢い良く立ち上がって店内を見回した。少女の気配は何処にも無かった。

私はその晩、また夢を見た。子供の頃暮らしていた古い家に、今の私の部屋があった。私のベッドには母方の祖母が寝ていた。その祖母の横で、小さな子供の姿をした母親が、祖母の手を握って泣いていた。私はその子供の頭を悲しい気持ちでなでていた。父が突然部屋に入って来て怒鳴った。

「わからん!どうしてもわからんのだ!」

私は(お父さん、何がわからないの?)と声に出さずに聞いた。だが、よく見るとその人は父の顔をしているが、他人だった・・・私は驚いて目がさめた。

私はベッドの上で、少し茫として今の夢の気分に浸っていた。怖い夢ではあったが、何か力強いメッセージを感じていた。昨日の夢や、あの黄金の少女。私はべつに宗教や神を信じているわけではないのだが、何故か私に何かを示唆しているような気分だった。

私に何かが何かを訴えている。論理的な思考とも、感情的な感覚ともちがう、何かもっと根源的で、普遍的な何か・・。神?近い気もする・・。いや、何かもっと身近で、目に見えないが現実として実感できる何かだ・・・。私の命?私がその事を思いつくと、突然体にぞくぞくとしびれるような感覚が襲ってきた。その時、母の声が聞こえたような気がした。「お母さん?」私は自室の入り口に向かって聞いてみた。返事は無かった。今度はぞくっと悪寒が走り、私は自分の胸を抱いた。私自身の中に、母がいるような気がした。私はちょっと厭な気分になった。

母とは良く喧嘩をした。仲が良い証拠だと人には良く言われた。だが、私は自分が思春期を迎えて、母親が自分に無関心である事を気づき始めた時期があった。確かに母は口うるさく、良くその事で口論をした。だがある日、母の最大の関心事は『世間体』や『常識』であり、私ではない事に気がついた。母は良く『もし人様が見たら』という仮定の上に私の行動を規範しようとしていた。しかもそれは『母親である自分が恥をかく』と続く言葉が隠されていた。母のその規範には『女性として』というものもあった。ただ、それは『男性が見た』という隠された言葉に続いていた。そう考えると全てに合点が行った。勿論母を問いただしたとしても認めるわけが無いが。

母の母、つまり祖母は二人いた。一人は母を生んだ実際の母で、本家の次男に嫁いで2人の女子を生んだ。本家の長男は今の戸籍の祖母と結ばれたが子宝に恵まれず、次男に誕生した下の子であった母を、本家の跡取りとして養子にした。その長男は母を養子にしてまもなく戦争で他界し、嫁であった戸籍の祖母が女手ひとつで母を育てた。戦後の混乱期でもあったが、幸い本家は幾ばくかの資産があったので、祖母はそれを切り売りしながらやりくりした。近くには母の実の親である次男夫婦が住んでいたが、この夫婦は実の子にあまり優しくなかったようだ。母がこの叔父叔母を実の父母だと知ったのは成人する頃であったようだが、どんな心の葛藤があり、何があったか、当の母の叔父叔母、養父母とも他界してしまった今となっては、母が口を開かなければはかり知りようも無い。もう10年以上も前に、私は祖母の13回忌に集まった父方の遠い親戚からこのあらましを聞いたが、これとて当事者には何も確かめていない。一度母に聞いてみたことがあったが、「そうねぇ・・。昔のことだから・・。」という軽い言葉とは裏腹に、よほど思い出したくないらしく、ふと見せた苦悶したような表情が妖怪のようで恐ろしかった。本家の見栄、分家の意地などという幻想が、戦争で価値観が壊れた社会の中で、姿を妖怪のように変えてしまったのかも知れない。私はそれ以来聞くのをやめた。

戸籍の祖母は厳しい人だった。私は幼い私の行いが元で母と仏間に座らされ、祖母によく小言を言われた事を覚えている。寸分の乱れなく和服を着、カツラのようにきっちりと結った髪を振りたてて机を叩きながら鋭い口調で怒る様は、私の6歳の誕生日に、彼女が他界するまで続いた。そしてその時も母は決して私の味方ではなかった。一緒になって怒りはしなかったが、決してかばわず、ただ黙ってやり過ごすようにじっとしていた。私は母の後ろに隠れたい衝動に、両指に力をこめ、正座した自分のひざを握る事で絶えていた。祖母は母子してじっと俯いて耐えている姿に業を煮やし、いつもさいごはあきれた口調で「瓜の蔓に茄子はならぬか・・」と結んだ。思えば母も、押し込めた記憶が顔を出さぬように、必死で耐えていたのかもしれない。

私はここ最近、すこし体調が優れない日があり、そんな時は右足の付け根と右胸に少し違和感があった。ここの所、仕事での気疲れが多いような気がするので、何かのストレスから来る病なのだろうか・・。ぼうっとそんな事を考えてしまう。勤めている会社で新しいシステム導入があり、違う課から何人かが集まったプロジェクト・チームが編成され、私もその中に選ばれていた。システム導入は会社全体に影響がある為、各方面の部署で風通しを良くしながら行わねば協力をえられず、しかも全体の業務を効率よく飲み込む為に、無駄や習慣だけの仕事を切り捨てる必要があった。会社の業務の意味を理解することも無く、ただ習慣として綿々と行って来た事を経験と歴史だと勘違いしている管理者とその部下を説得しながら進めなければならないこの仕事は、使命感から来る精神的な強さが必要だったが、社長以外、プロジェクト・チームの誰一人としてそんな物を持ち合わせている様子は無かった。プロジェクトは当然暗礁に乗り上げたかのように前に進まなかった。私ももちろん仕事に人生を賭けるつもりは無かったが、しかし少しの後ろめたさはあった。この間会議で少しばかり建設的に振舞えたのは、その隠れた気持ちが前に出たからなのかも知れない。だがそもそも貿易を主業とした中堅企業のこの会社に就職したのは、私の子供の頃好きだった海外のキャラクターグッズを輸入販売していたからだった。結婚も含め、さしたる将来への希望や目標も持たず、ただ就学期間が終わったと当然のように就職活動をし、その理由付けに昔好きだったキャラクターを当て嵌めた。そういう事だったように思う。私はこの間の会議で主導権を握り、会議を活性化させている自分を思い出し、その背中にひとりごちた。(なのに私にそんな使命感を期待する方がおかしいのよ!)右の足の付け根と右胸がしくしくと軽く痛んだ。

その日は朝から雨が降っていた。カウンター席の一番端にあるマホガニーの椅子には誰も座っていなかった。小雨の上に日も暮れて来たので、椅子の周りは少し暗がりになっていた。私はその店で男友達と待ち合わせていた。会社の同僚達と出かけたスキーで知り合ったその男性は、隣のビルの会社に勤めていた。そんな偶然も手伝って、去年の冬には少し関係が盛り上がりそうになった事があったが、バレンタインに急な仕事が入り、私が彼の取ってくれた予定をキャンセルさせてしまって以来会う機会を作れずにいた。自分も楽しみにしていた分、少しだけ気まずい気持ちが連絡を疎にしてしまったのだ。クリスマスもバレンタインもそれ以来ひとつづつ過ぎてしまったが、お互いごくたまにメールをやり取りする程度で、日々の雑事に埋没していた。

「やあ、待った?なんか、すごく久しぶりだね。元気だった?と言ってもメールで聞いたけど。」

屈託の無い笑顔で彼が私のテーブル席の前に座った。寒い日なのにコートを着ていなかったが、ダークなスーツに明るい臙脂で少し大きめの幅広マフラーを巻いた短髪の彼の顔は、若々しく色艶が良かった。

「うん。久しぶり。元気そうだねって、こっちもメールで聞いたけど。なんか飲む?それともすぐ食事に行く?」

「まだそれほどお腹空いてないから、少し話そうか。ここ初めてなんだ。近くだから毎日前は通るんだけど、入った事無かった。良く来るの?ちょっと何か飲もうかな。何がお勧め?あ、でもそっちはお腹空いてる?」

「ううんまだ。ここ今日で4回目かな。私も前は通ってたんだけど、月曜に初めて。いつもカプチーノだけど、結構おいしいよ。」

「じゃ、それ試してみようかな。」

私たちはしばらく共通の友人がどうしたこうしたと話しては笑い、少しだけ時を取り戻したような気がした。

「去年はごめんね。」

ちょっとした会話の切れ目に、私は心につかえていたものを溶かすように言った。

「どうしたの。いいって、いいって。」

「何だかちゃんと謝ってなかったわ。」

「そんな事無いさ。それにその後ちょっとすくんじゃったのは僕のほうだし。」

「あら、誤解だわ。私も楽しみにしていたのよ。すごく残念だった。そう見えなかったかもしれないから、ちゃんと謝って置こうって思って。」

「・・OK。全部受け取ったよ。理解した。ありがとう。」

彼と話すのはすごく楽なことに気がついた。女友達でさえ話している言葉とそこに乗っている感情がずれていて、そのギャップを受け取っている事がつらくなる時がある。父などは特にそうだった。何となくだが、言葉と感情がずれていない彼は、誠意のある人なのだと感じた。言葉に嘘が無いとはこういう事なのだろう。なぜ今まで気がつかなかったのだろう。なんだか自分を必要以上に自分で閉じ込めていたような気がした。それがあたかも大人であるかのように。そう考えたとき、ふと、ガラスの外を、何か明るいものが通ったような気がして視線を向けた。外は相変わらず暗く小雨が降っていたが、カウンター席の一番端にある例の席マホガニーの椅子の周りは、何となく明るく浮き上がって見えた。

翌日は、昨日の雨のせいか透き通るような青さに空は晴れ、少しだけ春を予感させる暖かさになった。

「おはよう。早いね。ここいい?」

彼は昨日と同じ屈託の無い笑顔で、日の当たる大きな窓のカウンター席に座る、私の隣に座った。

私たちは昨日、あの後食事をしに出かけ、空白の時間を取り戻すように良くしゃべり、良く笑った。あんなに無邪気に他人と、しかも異性と話せた事は初めてだったような気がする。その時間は、彼もきっとそう思ったに違いないと確信できるほど、考えるだけで気持ちが明るく、軽くなるような記憶となって、心の深い部分に刻まれる思い出になった。

「おはよう。昨日はありがとう。本当に楽しかったわ。」

彼は私の、感情と寸分もくるっていない言葉に軽く笑顔で会釈した。

「こちらこそ。」

そのとき、私の左に座って私の方を向いている彼の肩越しに、例の一番端の席に座る少女が見えた。

 「どうしたの?」

彼は私の顔から注意深く観察するような表情と、視線の先を読み取ったらしく、少し小声で聞いた。

 「あ、いいの。なんでもない。」

私は少し慌てて視線を彼にもどし、笑みを浮かべたが、彼は不思議そうに私を覗き込んだままだった。

 「実はね・・・。」

私はこの店に初めて来た時から経験した不思議な体験を注意深く話した。その少女が彼の幾席か後ろ、私の視線の先に今座っている事を話すと、彼はすこしじっと何か考えているように伏目になり、不自然ならないように間を取っているようだった。私がそうなのかどうか聞こうとした時、彼は大きく伸びをするふりをして振り返った。そのとき私にはまだ光が見えていたような気がしたのだが、その席にはすでに誰も座っていなかった。「えっ?」私は思わず小さな声を上げた。その時、雲が通りかかったのだろう、日が当たって明るく発色していたマホガニーは、グレーにそのトーンを変化した。彼は体をゆっくり戻すと深呼吸をしながら言った。

 「残念。お目にかかれなかったようだね。誰かいたのは確かに感じたよ。」

私は心臓がどきどきしてきて少し胸に手を当てた。彼がそれを気遣ってくれた。

 「大丈夫?お水をもらってこようか?」

 「う・・ん。大丈夫。ちょっと驚いちゃったみたい。幻覚なのかしら・・。」

 「いや、君が見たなら事実だと思うよ。」

「・・・ありがとう。でも私ちょっと神経症っぽいのかしら・・。」

これから社会人として一般常識といわれる価値観が支配する世界へ、思い込みかもしれない日常を当然として出勤しようとしている朝の事だから、その世界観では説明がつかないというだけで、自分のこの確かなはずの感覚をつい否定的な感情が支配してしまう。

 「大丈夫。世界には理由の無い出来事なんて無いんだと思う。精神や体の変調とかじゃなく、きっと何か理由があるんだよ。君がその少女を見るのは。なんとなくそう思う。・・この『なんとなく』って、僕は結構大事にしているんだ。あまり人に話したことは無いけどね。普通は『いい加減』と同じ意味にとられちゃう事が多いからね。でも自分を信じる事は悪いことじゃない。」

彼が言わんとしている事は、私も『なんとなく』分かった。

私は「そうね。」と言って深呼吸をしながら、少し心が温かくなった気がして彼に微笑みかけた。

「ちょっと普通に言うと引かれちゃうかもしれないけど、友人に『ダウジング』をする奴がいて、いろんなことがわかるらしいんだ。」

私は『ダウジング』という言葉を聴くのは始めてではなかった。ひもや鎖の先に下がった金属や水晶を、探し物がありそうな地図や知りたい事が書かれた言葉のうえにかざすと、真実の場合にその上でくるくると回転したりゆれたりする事が、行う人によってはあるらしいのだ。『ダウジング』はその行為の総称らしい。どこかのTVで『超能力特番』に出てきた事があったような気がした。その番組は、未解決事件の犯人を超能力で捜すと言ったような内容だった。その中で超能力者と称される女性が、細い鎖の先に先端を下にして下がったダイヤモンド形の金属のついた道具を使っていた。なんとなくその女性の印象が怪しい感じがしたので、彼女の使っていた道具もちょっと眉唾の印象として記憶されている。彼の説明にはそんな雰囲気はなかったが、世間一般にはかなり胡散臭い感じが染み付いているように思う。私は彼に正直にその感想を言ってみた。

「そうだよね。占いや超能力とあいまって、今じゃ胡散臭さの代表みたいに扱われることも多いものね。でもダウジングは地下水脈や洞窟、つい最近までは埋まっている古い土管なんかを探す手段として普通に使われていたんだ。もちろん友人がやっているからって意地になって正当性を説こうってつもりは全く無いけど、歴史的に使われていたこともあった事は事実らしい。」

彼は全く普通の人だった。むしろ現代でこれだけ普通でいるのは、かえって難しい事なのかも知れない。彼はそのことを妄信したり、嫌悪したりしているわけではなく、まったく普通に存在する事を存在する事実として理解しているようだった。しかも、先入観の多く支配する微妙な事柄であるのに、誤解を恐れずまっすぐに思っている事を伝えてくれていることが、この上ない安心感と暖かさをくれた。

「世界にはまだまだ解っていない事の方が多いと思うんだ。人間だって今解っている事だけが全てじゃないと思う。でも時々、生きているって事は、きっとこの世界の全てを理解しているから起きている現象なんじゃないかと思う事がある。その法則って言うか、そんな物を最大限利用してここに私がいるって・・・。なんてね。ちょっと調子にのってしゃべりすぎたかな・・。気にしないでください。あははは。」

照れくさそうに彼は笑った。私はその友人に会ってみたくなった。彼に正直にその事を伝えた。

「うん。でも約束して欲しい。決して過大評価をしたり、鵜呑みにしてしまったりしないで欲しいんだ。・・自分で紹介しておいて変かも知れないけど・・。」

私は、彼が如何に精神的な事を扱う難しさを知っている大人であるか、良くわかった気がした。

「うん。大丈夫。ありがとう。」

私たちは次の日曜にここで待ち合わせ、彼の友人に会いに行く事になった。それまでに彼が予約を取ってくれるそうだ。私は予約を取らなければならない程人気があるとは知らなかったので、気軽にお願いした事を少し申し訳なく思った。だが彼はそんな事は全く気にしていなかった。

その日曜は朝からからりと晴れ、気温もコートが要らないくらいに上がって春がすこし顔をのぞかせたような、気持ちの良い日になった。私がその店に待ち合わせ時間より少し早く到着すると、彼は既に来て、この間待ち合わせを約束した同じ席に座り、殆ど減っていないカプチーノを目の前に置き、旅行のパンフレットらしき印刷物を開いたまま窓の外を見つめ、少しぼうっとしていた。

「おはよう。・・どうしたの?」

私は彼の隣の、やはり先日待ち合わせを約束した席に荷物だけ置いて話しかけた。

「・・あっ、ごめん。おはよう。いや、なんでもない。何かぼうっとしちゃって。」

「大丈夫?・・まだ時間あるよね。飲み物買って来るね。」

「うん。・・。」

彼は何か、得心が行かないようなうつろな返事をした。

彼の向こう側、昨日例の少女が座っていた一番端の席に明るく陽が当たっているのが目に入った。

私はとりあえずカプチーノを買い、席に戻った。彼はまだ窓の外を見つめていた。

「・・大丈夫?・・なんかあったの?」

私は席に座りながら彼の方を向いて飲み物を口に運んだ。彼は急に意識が戻ったように私を見た。

「・・実は僕もさっき見たんだ・・。」

「えっ?何を・・?」

彼のとっさの話に、少しばかり頭が回らなかった私は、呆けた質問をしてしまったと、少し恥ずかしくなって慌てて後を続けた。

「もしかして・・あの席に?」

その席にはまだ明るく陽があたり、金色に輝いていた。私のほうを向いていた彼は、私の視線を追うように注意深くゆっくりその席の方を振り返った。

「やっぱりいないよね・・。」

彼は残念とも安心したとも取れる、微妙なため息を吐きながら私のほうに向き直った。彼は飲みかけのカプチーノを口に運んで、ちょっとだけ喉を湿らすように呑むと、深いため息をもう一度ついた。

「実はさ、次の連休に友人と海外旅行を計画していてね、友人が申し込んだパック旅行のパンフレットを見ておこうと、ちょっと早めにここへ来たんだ。最初店に入った時は気にしなかったから、そこの席にだれか座っているかどうか確かめなかったんだけど、カプチーノを買ってこの席に来ようとしたら、その席に自分で光っているんじゃないかって思えるほど陽を浴びて輝いてる、透き通るような少女が座ってたんだ。薄く目をつむり、何か考え事をしているような姿が、なんとも美しくて、ちょっと見とれてしまったんだ。でもこれはいけないと気を取り直して当初の目的のパンフをとりだしたら、そこから何か・・良く分からなかったんだけど何かが飛んで行ったような気がして、しばらく店の中を見回していたんだ。」

私は彼の話しが自分がいくつか経験した状況に良く似てるので、激しくなりそうな鼓動を抑えようと、彼に気が付かれないようにゆっくり息を深く吸ってゆっくり吐いた。

「でも、何も見つからないから、気のせいだろうと諦めて、パンフレットを見て驚いた。・・これなんだけど・・。」

彼は遠慮がちに私のほうへパンフレットを向けた。

「えっ?何があるの・・。」

私は恐る恐る彼の差し出すパンフレットを覗き込んだ。

「・・!」

私は息を呑んだ。見開きを開いた中に、ホテルの写真と、その右上に航空機の写真がコラージュしてあったのだが、そのホテルと航空機の重なっている部分が焼け焦げたように色が付き、そこを中心に、回りがぼんやりと黒ずんでいた。しかも航空機から出ているとしか見えない、煙のようなものまで写りこんでいた。

「・・これは何?こんなパンフレットってあるの?」

当然の問いだった。旅行を売り込む為のパンフレットであるはずなのだ。まるで何かの事故写真のように、不吉なコラージュを真ん中に据えるわけがない。

「・・いや、こんな写真じゃなかったと思う。もちろん、これを友人からもらった時、ちらりとしか見なかったけれど、こんな写真ではなかったと思うんだ・・。後でこの旅行会社に、確かめに行ってみるよ。」

私は何とコメントして良いかわからなかった。短絡的にその旅行に不吉な事が起きそうだからなのでは無いかと思ったのだが、それを話せば返って彼の不安を大きくするだけのような気がして言い出せなかった。

「・・ごめんね。君まで厭な気分にさせちゃったね。」

彼はそのパンフレットを畳んで、着ていたこげ茶色のジャケットの内ポケットにしまいながら努めて明るい声で言ったので、少し気分が変わったような気がした。私の困ったような表情を読んだのだろうと思い、心でその気配りに感謝し、自分は大丈夫である事を彼に素直に伝えた。どうやらその感謝は表情に出たらしい。

「よかった。」

彼も表情を和げた。私たちは飲み物を飲みながら話題を変え、彼が今日これから訪問する場所の行き方や、その友人が大学の同期である事、どれだけ彼の友人が優れた第6感の持ち主だったかなどを話した。

「へー。そうなんだ。そんな事があったの。すごいね。」

「そうなんだよ。なかなか信じてくれる人は居ないんだけどね。」

良くありがちな予知能力のような話なのだが、学生時代を語る時に特有の独りよがりな興奮は全く無く、冷静すぎるくらいの彼のトーンが、その話に信憑性を持たせていた。

少し早くつくだろうと思われる時間に店を出た私たちは、店の外からガラス越しに見える誰も居ない例の席が、まだ陽を受けて光っている事に気づき、お互いの顔を見合わせた。

その彼の友人が『ダウジング』を行っている場所は、アップタウンにある高級高層マンションの一室だった。真っ白い吹きつけのごつごつした壁に、明るい紺色をした陶器の瓦を載せたベランダや窓には、黒い唐草のデザインを施した鉄製の柵や手摺がついていて、まだ建てたばかりの新しい建物なのだが、一時代前のデザインを思わせた。入り口はセキュリティになっていた。彼は玄関ドアを入ってすぐにある、銀色の竹を斜めに切ったようなデザインの、筒状のものに付いているインターフォンと部屋番号を押す為のテンキーを使い、慣れた仕草で部屋番号を押した。

「はい。」

インターフォンのスピーカーを通して、不機嫌そうな男の声がした。

彼がインターフォンに名を名乗ると、その声は急に声色が変わり、友達に公園で偶然出会った小学生のような無邪気で明るい声で答えた。

「しかし相変わらず時間通りだね。どうぞ。」

スピーカーの声がそういうと、目の前の大きな透明のガラス戸が左右に開き、白い大理石を張り詰めた床と壁のロビーへの道が開けた。

広い贅沢な空間の左側の壁には、大きな飾り棚があり、そこには瀟洒な模様の布が巻かれた大きな花瓶が沢山のゆりの花をいっぱいに抱えていた。その棚の手前には、花瓶と同じ柄の布を張ったソファーと、濃い茶色の木目の低いテーブルが置いてあった。滑稽なほど上流な感覚がちょっと古かった。

「ずいぶんと豪華なマンションね。」

私は少しだけ皮肉なトーンで独り言のように小さくつぶやいた。彼は笑顔でちらりと私を見て、小さく何度かうなずいた。

正面にあるヘアラインにレースのような模様の付いたステンレス色のエレベータドアが開くと、中にはチャコールグレーの下地に、臙脂のレース模様が入った絨毯を敷いてある床が、グレーの半透明の鏡張りの壁に囲まれ、天井からは小さなシャンデリアが下がっていた.

彼は35階まであるボタンの24階を押した。ボタンにまでレース風の飾りが付いていたので、私は思わず少し吹き出した。

「はは。さすがにやりすぎって感じ?」

彼は私を見て微笑みながら言った。

「そうね。ちょっとね。」

私たちは少し笑い合った。

エレベータの床と同じ絨毯が敷き詰められた廊下の壁には、腰の高さに白いアールデコ風の飾りが彫られた幅木があり、その下側には白い円柱風のデザインが入り、幅木の上側の薄い茶色の壁には、所々に趣味の悪い油絵が掛かっていた。その、どこか海外の、とりわけアジアの田舎都市にある自称高級ホテルのような雰囲気の廊下を右へ進み、イタリックの金の切り文字で「2408」と書かれた白い、やはりレースのデザインが彫刻されたドアの横にある、ゆりの花を模った呼び鈴を見た時、さすがにやりすぎだと口に出そうになった私だったが、これ以上彼の友人の住まいの趣味に関するコメントは、彼への不敬だと思い飲み込んだ。

「やっぱりやりすぎだよね。ははは。僕も前から思ってたよ。」

彼は私の皮肉っぽくなりそうな心を察したのか、笑いながらそう言った。だがその言葉には、私に対しても彼の友人に対しても厭味が全く乗っていなかったので、私は少しほっとした。私も彼につられてくすりと笑った所でドアがひらいた。

「どうぞ」と内側に開いたドアを押さえるようにその前に立ち、手で奥へと誘う彼の友人は、黒いハイネックのセーターにモスグリーンのノータック・チノパンツを着ていたので、私は最初シンプルで感じの良い普通の人かと思った。だが目を落とすと、金色の線が沢山入った真っ白な光るエナメルの靴を履いていた。私はそのセンスにちょっと驚いて、彼がその友人に私を紹介している間も、私は表情が硬いままだった。しかし、彼の友人はもっと硬い表情で私を真っ直ぐ見つめているので、私は彼の友人が私のそんな思いを感じて、気を悪くしたのでは無いかと少し心配になった。

「どうした?何か気になるのか?」

彼が友人に聞いた。

「・・いや、失礼。」

彼の友人はそこそこに挨拶をすると、「まあ、上がって。どうぞ。あ、靴はそのまま、履いたままどうぞ。」と言って玄関に入った私たちを奥へと促した。

玄関は広く、やはり白い大理石が貼られていて、ほんの少しの上がり框があった。

「あれ?お前ずいぶん派手な靴履いてるな。」

ドアを閉め、私たちの前に出た彼の友人が、その上がり框に足をかけた所で、彼が声をかけた。

「はははは。いいだろ?これ。イタリアのなんちゃらって言うブランドなんだってさ。何となく買っちゃった。」

屈託無く笑う彼の友人に、「お前、コーディネイトって言葉知ってるのか?相変わらずだなぁ。」と彼が言うと、「お前こそその失礼は相変わらずだなぁ。」と彼の友人が返し、二人は小学生がじゃれっているようだった。

20畳はあるだろう広いリビングに通されると、ベランダに抜けるサッシの大きなガラス戸の前に、端のほうにA4のメモ用紙が山と積まれた猫足の大きなテーブルがあった。サッシを背にしてそのテーブルの後ろには、淵に孔雀が羽を広げたような飾りを施した、メッシュの高い背もたれがついた過度なぐらい豪華な椅子が置かれていた。

部屋の中心には濃い茶色に近い朱色を基調にした、円形のペルシャ絨毯が敷かれていた。その絨毯を取り囲むように4人掛けの濃い茶色にレース模様を刺繍したソファーが2つずつ、サッシの前のテーブルに対して横を向いて置かれ、そこに3人ほど年代の違う女性が座っていた。彼の友人は私達にソファーの空いている場所を示し、そこへ座って待つように促した。

彼の友人はサッシの前の豪華なその椅子にどっかりと座ると、「どうぞ。」と、誰にという訳では無く言った。彼の友人の座る机の前には、バーカウンターのようなスツールが置かれ、どうやら相談者はそこへひとりづつすわり話をするらしい。

短く刈った髪に白髪が混じった、グレーのパンツスーツ姿の女性が立ち上がり、待っている人達に軽く会釈をしてそのスツールへ座った。彼女は自分の名前を言い、「先生、宜しくお願いします。」と言いながらお辞儀をした。先生と呼ばれた彼の友人はテーブルの端に積まれたメモ用紙を一冊取り、黙って何かそれに書き込むと、何処から取り出したのか良く見えなかったが銀色の太い円柱を取り出し、その先端に付いたやはり銀色のチェーンの端を右手に持ち今書いた紙にかざした。その太い人差し指ほどの大きさの銀色の円柱は、不思議な事にチェーンで吊るされた部分を中心に、先端だけがゆっくりと円を描くように回り始めた。やがて彼の友人の手は全く動かず、チェーンも殆ど動いていないのに、円柱は横向きにならんばかりの勢いで回り始め、その勢いで彼の友人の手もゆっくり動き始めた。彼の友人は左手で動きを止めて円柱を右手に掴み直すと、静かにテーブルに置いた。

「先生、なんだかちょっと気持ちが悪いような感じです・・。」

座っていた女性が前かがみになりお腹を押さえながら言った。私は隣で一緒に座り、やはりこの光景に釘付けになっている彼に小声で聞いた。

「ねぇ、お友達は何をしているの?どうなったの?あの人・・。」

彼は小声で答えた。

「あれは純銀製の道具で、ダウジングをする道具なんだ。なくし物や困りごとの原因を探り当てたり、何かの答え求めると、正解なら回るし、間違いなら動かない。つまりダウジングって事なんだ。・・あの人がどうしちゃったのか・・ごめん・・良く分からない。僕もこうしてここにお客として座るのは初めてなんだ。友人同士集まったりした時は、奴が良くやってくれるんだけど、一般の人に混じるのは、やっぱり雰囲気が違うね。」

彼の声が聞こえたのか、彼の友人は私たちの方に鋭い視線を送って来た。テーブルの前に座った女性が何か小声で話しかけると彼の友人は小さく頷き、女性はスツールを立って自分の元いた席に戻り、お腹を押さえて前かがみになった。

「そっち先にやろう。ここへどうぞ。」

彼の友人は私を見、手で私を示して手招きした。

「おっ。どうぞ。あそこに行って座って。」

彼がテーブルの前のスツールを示して私を促した。どうやらひとりひとりらしい。私は彼がずっと一緒に行動してくれるのかと思っていたので、急に心細くなった。

「大丈夫。僕はここに居るから。」

彼はそんな私の不安を察したのか、立ち上がる私に声をかけてくれた。私は彼を振り向いて、少し微笑むと真っ直ぐ私を見る彼の友人の視線を見つめながら、テーブルの前のスツールに座った。

「お名前は?」

彼の友人は真っ直ぐ私を見つめたまま言った。そのまなざしは、その硬い表情とは違い、うるうると光に満ち、気持ちを安心させてくれるやさしい雰囲気を持っていた。私は緊張がほぐれていくような不思議な感覚を覚えた。

私が姓名を言うと、彼の友人は新しいメモ用紙に黒いサインペンを使い、カタカナで名前だけ書いた。さらにその下に何か数字らしきものを書き込み、対面に座る私の左前、彼の友人の右前に置かれた銀の円柱の鎖を右手に持って円柱を持ち上げ、書かれた文字の上にかざそうとしたが、円柱は持ち上げられたとたん、暴れるように回りだし、銀の円柱がほぼテーブルと平行になるぐらい激しく回転した。

「おっとっと・・。」

彼の友人は手から円柱を落としそうになり、両手で飛んでゆく鳥を押さえ込むように掴んだ。その様はまるで、円柱が勝手に動き回り、彼の友人の手から飛び立とうとしているようだった。私は驚いてソファーの彼を振り返った。彼はちょっと口を半開きにして顎を出し、ソファーの腰を浮かして、まるで驚いてどこかへ逃げ出そうと立ち上がる瞬間を捉えた写真のようだった。彼は私が振り返った事に気がつくと、浮かした腰を座らずにそのまま立ち上がって私の隣に来て立ち、彼の友人に真剣な声で聞いた。

「・・今のはなんだ?そんなの見た事ないぞ。」

私は何が起きたのか良く分からず、彼と彼の友人の顔を芒と見比べていた。ソファで待っている他の女性や、さっき気分が悪くなって私を先にと申し出た女性が、他の人とひそひそと話す声が聞こえたが、何を言っているのかは分からなかった。

彼の友人はゆっくり丁寧に銀の円柱をテーブルに置くと、派手な背もたれにもたれて深いため息をついた。

「何があったんだ、解るように説明してくれ。」

彼は少し興奮ぎみに彼の友人に詰め寄った。

彼の友人ははっと我に返ったような表情をして彼を見て、びっくりしたように聞いた。

「お前、その胸のポケットにしまってあるのはなんだ?」

彼は突然の問いに少し返答に詰まったが、「ああ」というと内ポケットから例のパンフレットを出した。

「これか?これが何かあるのか。」

彼はいぶかしげに聞いたのだが、コーヒーショップで見た不吉な写真を思い出し、「・・うん。確かに変だったが・・。」と独り言のようにつぶやきながらパンフレットを開いた。

「ああっ!」

彼は驚きのあまり声をだし、私の方を訴えるような表情で見ながら、手に持ったパンフレットをゆっくり私の方に向けた。

私は声も無かった。ただ、彼が違うパンフレットを出して、彼の友人と私を引っ掛けようとしているのではないかと思った。パンフレットにはコーヒーショップで見た事故のようなコラージュ写真は無く、明るい太陽に向かって飛ぶ美しい機体を中心に、良くありがちなリゾート用のパンフレットだった。

「うそでしょ?騙そうとしているの?」

私は彼に少し震える声で言った。

「その旅行は止めた方が良いね。悪い事は言わん。グループ旅行なのか?だったら全員に取りやめるように説得する事だな。無理にとは言わんが・・。」

彼の友人は私をちらり見たのだが、私の質問は後回しと言うように彼に話かけた。彼はまたパンフレットを両手で持ち、じっと写真を眺めていたが、ふっと気がついたように私を見た。

「ごめん、ごめん。ちょっと驚いちゃったもんだから・・。・・騙す?まさか・・。何のために?こんな手の込んだ事しないよ。疑うのも無理はないけど・・。自分でもちょっと今起こっている事が飲み込めないでいるんだ・・。さっきコーヒーショップで見たのは夢だったのか・・?」

彼は精一杯笑顔を作ろうとしていたが、緊張は隠せなかった。彼は蒼白な顔色で、少し震える両手に開いたパンフレットを見つめていた。

「で、あなたのほうだけど。」

彼の友人はパンフレットと固まっている彼の事は一段落したとでも言うように、私の名前の書かれたメモ用紙から目を離さずに話し始めた。

「最近何か不思議な事とか起きたりとか、どこか体調不良とかがあったりするんじゃない?」

私は彼の友人の確信に満ちた言葉に、少し戸惑った。確かに不思議な事は起きた。あの黄金の少女だ。そもそもその事を彼に話したから、ここに来る事を彼が提案してくれたのだ。彼が前もって彼の友人にその事を話していれば、詐欺のような質問という事になる。私は彼の方を見て「この人になぜここへ来たか言ったの?」と心の中で聞いた。彼はまだパンフレットを持ったまま、私を見た。彼は私が心で聞いた事を察したらしく、首を小さく左右に振った。だが、私は彼の友人の方にはっとして向き直った。体の違和感の事は自分でもまだはっきり意識していたわけではなかった。もちろん彼にも話したことが無い。今彼の友人に指摘されて初めて、ときどき右胸と右足の付け根に起きる痛みが、体の不調なのかも知れないと思った。ことさら大袈裟でもなく、占いの類に良くありがちな、恐怖をあおるように深刻な振りをする事もせず、ただ淡々としている彼の友人の様子に、私は返って不安を覚えた。大した事実でもない事を重大な事だと騒ぎ立て、自分はそんな重大な事がわかるのだと暗に喧伝している、よくメディア等に登場する著名な占い師のようだったら、私も少しは騙されて信じたとしても、どこか『ばかばかしい』という気持ちが大きく後ろ盾にあるから楽しめる、遊園地のお化け屋敷のような不安に浸れただろう。きっと人間は事実でない事柄は、心の何処かで『うそ』である事が分かるのだ。だがこの彼の友人は違った。事実をそのまま伝えようとしている誠実さを感じるのだ。その心が感じる彼の誠実さは、おもわず頭が下がってしまうほどの清廉さを持っているのではないかと思え、余計自分に対する不安をつのらせた。

「どうしてそんな事が分かるの?」

私は心とは裏腹に口をついて出た言葉に、自分でも驚いた。責めるつもりはことさら無いのに、口調は相手を責めている様なのだ。責める謂れなど全く無いのに。しかし彼の友人は私の言葉に答えず、その裏にある私の不安に答えた。

「ま、一度検査に行ってみてはどうですか?なんでもなければそれで安心だし。」

彼の友人は手に持ったメモ用紙を机にゆっくり置きながら私を見て人懐っこく微笑んだ。私は私の責めるような言葉に全く誠実さを失わずにいる彼の友人を『すごい』と思った。

「・・何が見えたのか詳しく説明してくれないか・・。」

いまだにパンフレットを両手で掴んだまま彼が彼の友人に聞いた。珍しく詰問するような口調は、ここしばらくしか付き合ってはいないが、私には見せた事の無い彼の様子だった。彼の動揺している心がさざ波のように伝わってきて、私の肌に鳥肌を立てた。

「う~ん。困ったな・・。難しいかな・・。説明は・・。今誤解されると困るんだ・・。」

彼の友人は本当に困った様子で腕を組み、椅子の背もたれにもたれた。彼は納得できないと言う様な表情で顔を左右に振りながら、「・・どう誤解する余地があるんだ・・。」と小声で言い、パンフレットに目を落としなが、誰に話かけるでもない様子で続けた。

「見間違えたのだろうか・・。確かにこの写真は、一番最初からあった物だと思うんだけど、さっきは全く違った写真になっていた・・。」

彼は私に「そうだよね。」と同意を求めた。私は写真を鮮明に思い出せはしなかったが、確かに変な写真だった・・、と思う。だが、今目の前にあるパンフレットは、その時とは明らかに違う写真の載ったものだった。彼は独り言のように言った。

「狐にでも化かされたのだろうか・・。」

私はとっさにあの黄金の少女が浮かんだのだが、彼の『狐』という言葉が、その少女の高貴さを汚すような気がして、つい口をついて言葉が出た。

「あの少女はそんなんじゃないわ・・。」

彼はわれに返ったように私を見て慌てて言った。

「いや、あの少女の事じゃないよ。もちろん。」

「あの少女ってだれの事?」

彼の友人が少し微笑みながら私と彼の顔を見比べながら、やさしい口調で尋ねた。私は彼の友人に、ここ一連の出来事と、それが元でここへ来た事、そしてここへ来る前に彼もその少女を見た事等を詳しく話した。私が話している間中、彼の友人は私の目の奥にある記憶の画像を見ようとしてでもいるように、真っ直ぐな力強いまなざしで私を見ていた。

「・・やっぱりそうか・・。」

彼の友人は、何か確信を得たように独り言を言うと、テーブルの引き出しから一枚の名刺を取り出した。

「二人とも、ここを尋ねてみないか。」

彼の友人がそう言いながら差し出した名刺は、カタカナで苗字の無い名前に、所在地と電話だけ赤い文字で書かれたものだった。

「・・どういうことだ?」

彼が彼の友人から名刺を受け取りながら聞いた。

「僕の先生だ。君たちは僕のレベルでは難しい。もちろん強制はしないよ。気が向いたらで良いけど。」

彼の友人は淡々と言った。

「おいおい、僕のレベルって何だよ。それは良い意味なのか悪い意味なのかどっちなんだ。」

彼は片手にパンフレットを持ち、もう一方に名刺を持ちながら彼の友人に言った。

「どっちの意味もある。そこが僕のレベルでは微妙なんだ。」

彼の友人はテーブルに両肘をついた手に顎を乗せながら、彼を真っ直ぐに見て言った。その瞳は遠くを見る様でもあり、彼の見えない部分を見透かそうと目を凝らしている様でもあった。二人の顔をただ見比べながら会話を聞いていた私に、彼が名刺を差し出しながら聞いた。

「・・どう思う?」

私はその名刺を覗き込んで赤いカタカナで書かれた文字を頭の中で読もうとしたとき、憂いを含んで伏し目がちに俯いたあの少女が少し顔を上げ、唇を動かしているイメージが浮かんできた。その桜色に透き通るような唇は、(行きなさい・・)と言っているように見えた。私は少しうろたえて頭を振りながら両手で顔を押さえた。

「・・どうしたの!大丈夫?」

彼が心配して私の肩に手を置いて私を覗き込んだ。私は手を下ろして顔を上げると表情は厳しいが、潤んだやさしい目で私を見つめている彼の友人の顔を見ながらきっぱりといった。

「行って見るわ。」

私たちは彼の友人の個性的なマンションから、また例のコーヒーショップへ戻って来た。ここへ着くまで、彼の友人の家で起きた事をお互いそれぞれが反芻しているように、私たちは殆ど口を利かなかった。

「少しお腹が空いたね。何か食べものも頼もうか。」

彼がオーダーレジの横にあるフードケースを見ながら言った。

「うん。そうね。私は何か軽いものが良いかな。」

私はお腹は少し空いてはいたが、食べ物が喉を通るか心配だった。彼はシュリンプ・カクテル・サンドイッチを二つ取り、オーダーレジで飲み物を頼んだ。

「またカプチーノでいい?」

私はうなずき、先に席についている事にして、彼の荷物を預かった。私は朝と同じいつもの席に座ると、何気なくまた例の少女の席に目をやった。夕方の陽が傾いた外の景色を受け、誰もいないその席はグレーに沈んでいた。彼が飲み物と食べ物を運んできた。私たちは食べ始めてみると、思ったよりおなかが空いている事に気が付き、食べる事に集中して黙々と食べた。私はあらかた食べ終わると、カプチーノの入ったその店の緑のロゴ入りの白い陶器のマグカップを両手に持ってカウンターに肘を付き、ゆっくりと飲み物をすすった。暖かい飲み物が、空腹から開放された安心感を確かな現実にしてくれるようだった。ウィンドウの外には、紫色の夕暮れに沈んでゆく休日の町が、静かに夜を迎えようとその彩度をゆっくりと落とし始めていた。私は今日起きた、日常とはかけ離れた出来事を、もう一度思い出していた。明日に向かって、また普段の日常がゆっくりと戻ってくるような感覚と入れ替わるように、今日の奇妙な体験は、遠い昔の出来事のように現実感を失いつつあった。

「やっぱり少しお腹空いてたね。」

彼も空になった皿を脇に動かし、飲み物を口に運びながらほっとため息をつくように言った。私は少し微笑みながらうなずいた。

「さっきまでの事が遠い昔みたいな感じがするのは、あまりに日常とかけ離れていたからなんだろうか・・。」

横に並んだ彼は私の方をちらりと見、ウィンドウの外の暗く沈みかけた町に流れる、車のテールランプを追いかけるように目を戻しながら言った。

「そうね・・。でも・・。」

私は彼の友人が「先生」と呼ぶ人の名刺を出したとき、私の頭の中にあの少女が現れ、「行きなさい」と言ったように思えた事を思い出した。あの少女の憂いを含んだ透き通るような桜色の唇が、やさしく動く様を鮮明に思い出すと、体に強い、痺れるような感覚が襲ってきた。私は少し肩をすくめてその感覚に耐えた。

「どうしたの?大丈夫?」

力が入ってすくんでいる私を、彼が心配そうに覗き込んだ。

「うん。大丈夫、大丈夫。」

私は痺れの感覚が薄れてゆくのを待って、今起きた事を正直に話した。彼はきょとんとしていたが、やがて深く頷くとゆっくりやさしい声で言った。

「僕たちの住んでいる世界は、きっと見えている世界だけが存在する唯一のものでは無いと思えるんだ。複雑なものは、単純なものが沢山重なり合って出来てゆく。おそらくこの世界も沢山の単純な見えないものが折り重なって複雑に見えるこの世界を作っているんだと思う。日常のこの複雑に折り重なった世界に囚われていると、その単純さを忘れ去ってしまう。それはあたかも無かったかのように意識から遠のいて行く。だけどその単純さは相変わらずこの世界の基礎をなし、全ての事柄に見えない形で関わっているんだと思う。・・行って見よう。冷静に考えればばかばかしい思い込みかも知れない。でもそれでもそこに何かあるかもしれないと言う自分の感覚を信じてみるのも悪くない。」

私は彼を見て少しほほ笑みながら「そうね。」と頷いた。

翌日からしばらく、私たちはお互いの仕事が予定外に忙しく、次の約束を調整できないまま数週間が過ぎてしまった。私はここの所朝早くに出て帰りが遅く、すっかりあの店にも行っていなかった。彼とは1・2回メールのやり取りをしたが、お互いにスケジュールが合わず、「じゃ、また。」と言ったまま「また」がまだやって来ていなかった。

「明日、何時にしたの?」

昨日も遅くに帰り、今朝早く出社して仕事をし、ひと段落付いた所で同じフロアの別の島に席がある同僚が、コーヒーを注ぎに行った通りがかりに、私の席の傍に来て声を掛けた。

「・・明日って?なんだっけ・・。」

覚えが無かった私は、手帳を出して慌てて明日の予定を見ようとページをあわただしく繰った。

「やーねぇ。忘れちゃったの?検診じゃない。先月総務に予約表出したでしょ?あの16階のクリニックのおやじ先生、ちょっと胡散臭いけど、今度は行政から派遣が来るらしいわよ。ま、婦人科の検診が今回は入ってるからたぶん女医さんが来るんじゃないかな。」

私は同僚の言葉を聴きながら、自分の手帳の明日のページをやっと開いた。「会社の厚生健康検診10時AM16階」と書いてあり、総務から指示が回り、先月予約した事を思い出した。

「あ、明日だったんだ・・。」

私はぽつりと独り言のようにつぶやいた。

「やーねぇ。やっぱり忘れてたんだ。予約表取りまとめたのが私で良かったわね。感謝しなさいよ。」

彼女は私の肩をぽんと叩くと自分の席のある島へ戻って行った。彼女の物言いは、冗談の装いをしていたが、明らかに恩着せがましい思いが乗っていた。私は彼女のその思いを感じた自分に、少しあきれた気分になった。言葉の裏に隠れた相手の思いを、こんなに敏感に感じるようになったのはいつからだったろうか。いや、もともと持っていたのだが、意識に取り上げていなかっただけなのかもしれない。

(検診か・・。)

私はここのところ、毎晩右胸がしくしくと痛んだ。忙しさのせいだろうと思いながらも、言い知れぬ不安を覚える事があった。私は、明日の検診の事を思い出したからその事に思い至ったが、痛まない時は不思議なほどその事を忘れてしまうのだという事に気が付き、ちょっと驚いた。自分の体が発している信号を、こんなに簡単に忘れてしまうのはどうしてなのだろう。私は今ここで覚醒している意識の周りに、ぼんやりと隠されたものが一瞬見えたような気がした。体に痺れるような感覚が襲ってきた。あの、彼の友人宅で、あの少女が頭の中に現れた時以来の感覚だった。私はあの時と同じように、少し肩をすくめてその感覚に耐えた。

「ちょっと小さなしこりがあるかもしれませんね・・。まあ、ごく小さいので、なんとも言えませんが・・。」

清潔でさっぱりとした感触の真っ白なシーツが敷かれた簡易ベットに、上半身裸で横になった私の右胸を触診していた、医者にしては少し化粧の濃い中年のその女医は、うっすらとローズピンクの透明な樹脂が塗ってある細いメタルフレームの眼鏡を通して、どこか遠くを見るように私を見ながらつぶやいた。

「しこりって・・。悪いんですか?」

私はその意味が良く理解できなかったので、どう聞き返してよいか分からず、二者択一をせまるような聞き方をしてしまった。

「そうね・・。詳しく調べてみないとね。・・どうぞ、服を着てください。」

その女医はベット脇に置いたテーブルに向き直ると、カルテに何か書き込みながら言った。

「まあ、あなたの場合、ごくごく小さなしこりのようだけど、詳しく調べるに越した事は無いわ。来週中にここ連絡して検査予約を取りなさい。」

女医は身支度をする私に、聞き覚えのある大学病院名と所在地、そこに自分の名前の書かれたB6程の印刷されたメモをくれた。

「腫瘍とか・・癌じゃないですよね・・。」

私は渡されたメモを受け取りながら、不安でか細くなった声を振り絞るように聞いた。

「まあ、調べてみない事にはね。仮に癌だったとしても、早期ならほぼ完治するのよ。早く手を打てば怖がる事はないわ。それにしこるのは色々な原因があるのよ。でもまず一番重くて、早く知れば知るほど治癒の確率の高くなる物から調べないとね。なんでもなければそれで良いのだから。ま、一種の保険ね。」

何処かで聞いたような言葉だった。

その女医の言葉に、私は少し気が軽くなったが、それでもそんな病気かも知れないという不安は薄い黒雲のように頭を覆った。女医はそれを察したのか、笑顔で私の目を真っ直ぐに見て言った。

「自分の体に興味をもちなさい。病気は本当は体じゃなくて気持ちが先にかかるのよ。それが直接影響するのは自分の体なの。体は気持ちの鏡なのよ。鏡を見るように体に興味を持ちなさい。」

私は彼女が言わんとしている事を飲み込もうと自分なりに噛み砕こうとしていた。真っ直ぐ私を見る彼女の瞳の奥に、ふっと例の少女が見えたような気がした。私は体に痺れが走り、体を硬直して耐えた。その様子を見ていた女医は少し驚いたように言った。

「どうかした?大丈夫?」

私は少しため息をついて言った。

「大丈夫です。」

「そう・・。」

怪訝そうな表情の女医を後に診察室を出た私は、大きく深呼吸をした。

その大学病院は、学生街の真ん中に位置し、歴史ある名を馳せていた。本館の建物は古く補修を繰り返して来たが、すでにそれも限界を超え、取り壊しか保存かで世間をにぎわしていた。新しいビルが本館の後ろの敷地に、高層ビルとして建てられていた。その新館はまるで未来都市の建物のようにモダンで、外来も電子機器を駆使したシステムが、歴史のある大学病院特有の病人を扱うとは思えないほど待ち時間を課せられるという、今までの概念を一変させていた。フロアには「医療ボランティア」と大きな名札の上に書かれた、薄いブルーの看護服を着た大勢の人たちが、お年寄りや動作が難儀な人たちの世話と案内をしていた。私は電話で予約をしたものの、やはり初めて大学病院の広い外来待合へ来て、どこへどうして良いか戸惑っていた。薄いブルーの看護服に黒渕の眼鏡を掛けた、少し白髪の混じった貫禄のあるボランティアの男性が声をかけてくれた。

「初めてですか?予約は取ってありますか?」

子供に諭すような口調と笑顔が安心感を与えてくれた。私は予約の時に受けてくれた女性が言っていた予約の機械の事を聞いて見る事にした。

「今は予約をすると予約番号が出ます。予約日に来院の際、そこの予約機で予約した時にもらった番号とその時申告したパスワードか、保険証番号を打ち込むと、今日の受診表とポケベルが出ます。ポケベルが鳴ったら、ポケベルに表示された番号の受付へ行って後の指示を受けてください。」

男性はニコニコとしながら、ゆっくりと話した。

「ありがとうございます。こういう病院は付き添いで来たことがあるきりで、自分が来るのは初めてなんですけど、それでもずいぶん変わったなって思いますね。びっくりです。」

男性はますます笑顔になった。

「ここがIT化されてから、初めての患者さんは皆さんそうおっしゃいます。」

私は笑顔でお辞儀をしながら御礼を言い、予約機へ向かった。まるで駅の発券機のようなその機械には大きく操作順に番号が打ってあったのでわかり易かった。発券機から透明な書類はさみに入った、大きく番号の書かれた受診表と、薄いが大きな液晶画面の付いたポケットベルらしきカードが出てきた。

「へー。」

私は透明な書類はさみを透かすように持ち上げて中を見て、思わず口をついて出た言葉に、赤面しながら左右を見てしまった。

外来待合は大きなホールのような空間に、長いすが沢山置かれ、それを取り囲むように『会計』や『受付』、『薬剤』等の看板に、数字の並んだLEDの掲示板が上部についたカウンターが並んでいた。天井の高いそのイベントスペースのような空間に、沢山の人々が活発に動いていた。病院というより、銀行窓口のようだ。私は受付のカウンターの前の長いすに腰掛、なにげなく天井を見上げた。2階まで吹き抜けている天井からは、明るい水銀灯がいくつも下がり、そのコントラストで天井そのものは暗くて見えなかった。まるでずっと先まで暗い深淵が続いているような漆黒の闇があるような気がした。左目の端に見えていた天井の暗闇に、白い患者服を着た大勢の人間が並んでいる姿が一瞬見えた気がした。驚いて座りなおし、もう一度良く今見えた方を見たが、明るい水銀灯と暗闇のコントラストしか見えなかった。

ぴりり・ぴりり・ぴりり

かわいらしい電子音が鳴り、ポケベルの液晶がブルーに点滅していた。ディスプレイには(6番受付)と表示されていた。

「はい、今手続きをしますので、この用紙に書き込んでください。」

その窓口では紺色のリクルートのようなタイトスカートスーツを着た受付の女性が手渡してくれた、初診によくあるアンケートを書き、受付に戻した。

「ではBセクション2階の婦人科総合へ行って、ポケベルが呼ぶまでそこでお待ちください。Bセクションへはこのピンクの帯を伝って、ピンクの枠がついた出口より出たところのエスカレータで上がってください。」

女性は私の足元の床に『Bセクション』と大きく書かれた文字と共に張ってある帯を示した。私は足元から帯をたどって視線を動かし、その先に同じ色で枠取りされた開口部を確認した。再び振り向いた時には既に別の事務に取り掛かっていた受付の女性にお礼と軽い会釈をして、私は帯に従って歩いた。

 Bセクションの2階はまるでファンタジーランドのようなピンクを多用した色彩と、そのステレオタイプなコンセプトを反映するようにフリルフリル・ハートのような調度がしつらえてあった。デコデコなソファーに、地味な色のジャケットや、動きやすさが重要なスポーツ・スーツを着た、おおよそ世間のステレオタイプとはかけ離れた働く現実の女性たちが座っていた。マーケティングの失敗である事は明らかだった。女性のマーケティングに男性が口を挟んだ好例のように思えた。企画が女性であっても、結局男性が金種元なら同じ事だ。企画を通すには男性が見た女性らしさのステレオタイプが無いと、女性向け企画として通らない。尤も男性自身も、自分の持っている男性のステレオタイプに苦しんでいる事を自分が一番理解していないようだが。今の会社のように、長い間支持されているキャラクター依存体質を脱却しようと、企画物に挑んでは失敗を繰り返している構図には、そんなステレオタイプが「常識」としてある事を認めない社会的な規範があるような気がする。だが、これが一般的で最も多くの社会常識で、間違えているにせよ最も高い確率で受け入れられるなら、母が私に押し付けていた「世間体」は、世渡りの手法として理にかなっているとも言えなくも無い。私はデコデコソファーに腰掛けて、同時に自分の会社のメインキャラクターである「キラッキちゃんがこの待合には似合うなー」などと止め処なく考えながら呼び出しを待った。

 地獄のようだった。痛くもなかった右胸が、まだずきずきする。人によっては大した痛みではないそうだが、今受けたマンモグラフは、私にとってはまるで拷問のようだった。結果はすぐに出るとの事で、またこのデコデコソファーでしくしく痛む右胸と落ち込んだ気分を抱えて、少しすさんだ気持ちになっていた。

 担当してくれた女医は物腰の柔らかい、一見研修医かと思えるほど童顔だったが、そのしっかりとした化粧では隠せない首周りに年齢が現れていた。彼女は柔らかい声で私の落ち込んだ気分に追い討ちをかけた。

「初期の段階の腫瘍の可能性があります。組織検査をして、状態を確かめましょう。」

私は軽い貧血を起した時のような、視野が狭くなるような感覚を覚えた。

「そんな・・。癌・・なんですか?」

何処か他人事のような感覚があるのに、言葉や態度は深刻でなければならないような、捻じ曲がった気分が私を支配した。相変わらず柔らかい声で彼女は答えた。

「悪性が良性かの判断が先ね。腫瘍である事は間違いがないわ。いずれにしてもごく初期段階だから、心配する事はないわよ。適切な治療で殆ど治るわ。」

私の落ち込んだ気分は『殆ど』が気に入らなかった。

「・・殆どって言う事は、治らない場合もあるんですね?」

さすがに童顔の女医も、揚げ足を取られたような格好になった事を心良く思わなかったようだ。

「素直な患者さんはすぐ治るわ。ひねくれちゃだめよ。」

子供をたしなめるように、人差し指で「めっ」っと私の目を見ながらジェスチャーした。私はため息をついた。

1週間後の組織検査の予約を、例の予約機で確定しなければならない。ささやきかけてくる不安に取り合わないように、意識をなるべく麻痺させようとしながら予約機の操作をするのは困難を極めた。どうやってもエラー音と「もう一度やり直してください。」と大きな声の合成音声が響く。

「あ、そこでこのボタンですよ。」

先ほどの黒渕眼鏡の男性ボランティアが見かねて声を掛けてくれた。

「確定しました。予約番号の書かれた予約表をなくさないようにお気お付けください。」

合成音声の冷たい、言い放したような声が終わり、機械のディスプレイが初期画面に戻るまで、私は出てきた予約票を握り締めて立ち尽くしていた。

「今朝ほど、初めてとおっしゃっていた方ですね?」

そのボランティアは、私の様子を不審に思ったのか、黒渕眼鏡を人差し指で、ひょいと持ち上げながら、ニコニコと言った。

「・・あ、どうもありがとうございます。」

私はぺこりと頭をさげ、黒渕眼鏡の奥からの視線を感じながら出口へ向かった。玄関の外は午後の光がまだ高く、まぶしかった。日差しを避けるように手をかざし、所々ベンチがある病院のドライブウエイを眺めた私は、驚いて目を止めた。2つ先の陽がさんさんとあたるベンチの前に、まっすぐこちらを向いて日差しを浴びて光る、あの少女がいた。まるで少女が放っているようなその光はだんだんと強くなり、周りの景色を薄れさせていった。私の目の前は光で一杯になり、どちらが上か下かわからなくなった。その時、強く腕をつかまれ、崩れ落ちそうになる体を支えられた。

「ちょっと検査疲れで貧血を起したのでしょう。お昼にかかっちゃったからね。お腹もすいてるでしょ。食べられたら何か食べてね。まあ、今ベッドで少し休んだ事だし、少し顔色も戻ったから心配ないでしょう。」

救急の簡易ベッドに座っている私を覗き込んだ救急担当の若いエネルギッシュな医師は、私を支えてここへ運んできてくれた黒縁眼鏡のボランティアと私を交互に見ながらそう言うと、すたすたと診察室へ戻って行った。

「ずっと付いていて下さったんですか?」

「いえいえ、ここへお連れしたら持ち場へ戻りました。今、気が付かれたと看護士さんが教えてくれたので、様子を見に来ました。大丈夫ですか?」

私は力無くうなずき、「お世話ばかりかけてしまってすみません。」と小さな声で言うのがやっとだった。昔から人に世話を焼いてもらう事が下手だった。申し訳ない気持ちをどうもうまく表現できない。それが返って自分のストレスになってしまう。友人にも母にもすぐ「ほっといて!」と言ってしまい、怒らせる事が多かった。そんな時は決まってひどい自己嫌悪に落ちいった。

「私はボランティアですから。ボランティアの語源が私は好きなんです。ギリシャ語でボランタス。『意思』と言う意味です。転じて『自由意志』と言う意味の英語、ボランタリー。つまり私の自由意志で行動しています。ですからどうぞ気になさらないように。おっと、知ったかぶりの薀蓄がすぎましたかね。」

黒渕眼鏡の奥ではにかんだように目が笑った。私も少しだけ表情が緩んだ。

駅への道を歩きながら打撲したように触ると痛む右胸を気遣いながら、あの少女を思い出していた。ここでまたあの少女を見たような気がしたのは、何かを私に伝えようとしているのかも知れない。ふと、彼と行ったあのダウジングをしている彼の友人が、「先生」と呼んでいたあの名刺を思い出した。私は彼にメールをした。

「ゴメンね。何か無理言っちゃったね。」

私は息を弾ませて、私の隣の席に「待たせてごめん。」と言いながら荷物を置く彼に、無理に呼び出した事を詫びた。

「なんだかばたばたと忙しくて。こっちこそちゃんと連絡しないでごめん。ちょうど週末の今日、ひと段落したんだ。早く切り上げられて良かったよ。そっちはどう?何だかやっぱりあれ以来すごく忙しそうだけど。」

彼は「飲み物を買ってくるね。」と、私の答えを待たずににこりと笑顔を私に見せてオーダーカウンターへ向かった。

ガラスの外が夕暮れで薄暗くなった例のコーヒーショップの店内には、春が近付いた事を告げるように短く降ったさっきの雨の香りが、コーヒーのそれと混じって暖かく漂っていた。まだ濡れている路面を走るタイヤの音が、店内に少音で流れる「泣かずにいられない」の伴奏を掻き消し、時折聞こえるすすり泣くような歌声は、まるでレイ・チャールズが耳元にささやきかけているようだった。

トレーに乗せたカプチーノを持って席へ戻ってきた彼に、私は彼が置いた荷物を少し寄せて座るスペースを作ってあげながら言った。

「私の方も、何かと忙しくて棚上げな格好になっちゃってごめんね。」

「あ、ありがと。いや、時間をあける必要な理由があるんじゃないかな・・。だってあれ以来、なんだか特に忙しかった気がするんだよ。」

「そうそう。」

私は彼が私も言おうとしていた事を感じている事が分かり、タイミングの早い相槌を打ってしまった。彼が笑顔で私の方を向きながら「だよね。」と小さく可笑しそうに言った。

「そういえば、旅行は行ったの?あの例のパンフレットの。」

私は照れ隠しのように話題を変えた。

「いや。それがね、忙しかったのは確かなんだけど、もう前から計画して休みも取って置いたから、行こうと思えば行けたんだ。5人でのグループ旅行だったんだけど、私を除く4人が急用で行けなくなったって言うんだ。何となく不思議なような安心したような気持ちでキャンセルしたんだけど、やっぱりその日程のツアー、気になるじゃない。もちろん何か起こることを期待しているわけじゃないけど、私たちと同じ日程の人たちに何かあるのかなって。」

私は何もコメントせず、彼の言葉を待った。彼は少し真顔になって何か思い出しているような表情をしながら続けた。

「先週の週末が予定で、別のグループが予定通りの飛行機で出発して予定の日程通り戻って来たらしいけど、特に何も起きなかったようなんだ。いや。もちろんそれで良かったし当然なんだけどね。でも自分達が行っていたら、やはり何か起きていたのかなぁって漠然と思うんだよ。ダウジングの彼に言われた事も少し影響しているのかも知れないけど、起こらなかった事柄は、起きるべきだったその事が、何かで避けられたのかどうか証明のしようがないからね・・。」

彼はまるで冷たくなった手を温めるように両手でカップを包むように持ち、考え事に没頭したような表情をしながら、熱いカプチーノを少しすすった。

(起こらなかった事柄は、起きるべきだったその事が、何かで避けられたのかどうか分からない・・・。)

彼に並んで座る私は両肘をカウンターに突き、両手のひらに顎を乗せて少しため息をつきながら、彼の言葉を頭の中で繰り返した。私の場合はどうだろう。あのダウジングの彼が言っていた私の健康についての事柄が、まさに今私に起きたような気がする。私は先日の再検査の事を彼に言おうか迷った。

「実はね・・。」

私はやはり話し始めようと、彼に向き直りながら言葉を口にしたその時、彼の肩越しに、一番向こう端の席に座るあの少女が見えた。少女はガラスの外に向いて薄く目をつむり、少し右に傾げたほほに、肘をついた右手の一指し指を軽く当て、柔らかな表情で黄金色に光っているようだった。暗くなった外を走る、車のヘッドライトを受け、一瞬店内を明るくしたかと思うほど輝いたように見えた。私ははっとして言葉を詰まらせた。

「どうしたの?」

彼は少女を見つめたままの私に言った。何気なさを装っていたが、それは装っている事がはっきり見て取れる装いだった。私は何も言わずただ視線を少女に向けていた。視線を離すと消えてしまいそうな気がした。私は席を立って少女のところへ行き、話しかけてみたい衝動に駆られたが、何と話かけて良いか思い浮かばなかった。少女は私の迷いを察したようにゆっくりと目を開けた。視線ははっきり私を見つめていた。

驚いた事に、彼女はゆっくりと席を立ち、私のほうへ光を振りまきながらやって来た。その光が近づいてくるに従い体が温かくなってゆくような気がした。少女は彼を通り過ぎ、私の傍に立ち、輝くような栗色の長い髪を掻き上げると真っ直ぐに私を見た。茶色の濃く長いまつげで覆われた目のふちは自然なアイラインになり、真白く透き通るような白目は、大きな瞳をよりくっきりとした印象に際立たせていた。向こう側が透けているのかと思うような透明感のある肌に、茶色の煙る眉毛から美しい曲線を描いた先にまっすぐに伸びた鼻は美しくふんわりと小鼻に続き、その下にはくっきりとした稜線をもつ鼻梁と、明瞭な輪郭を持つ桜色のふっくらとした形の良い唇が優しく微笑むように閉じられ、栗色の長い髪が薄桃色のほほに揺れていた。私は何かの芸術作品でも見るように、うっとりとその美しさに見とれてしまっていた。少女はきれいにまっすぐ伸びた、皮膚を通して骨が見えるかと思えるほど透き通った印象の、すらりと伸びたたおやかな指を持つ右手を伸ばし、ゆっくりと目をつぶり何か小さくつぶやきながら私の右胸に手をかざした。私は何故か驚きは無く、少女に合わせるようにゆっくりと目をつむった。まぶたの裏には、濁りが静かに底へ沈殿して行き、薄青い透明な水へと変わってゆく湖のイメージがあった。私は少女が手をかざした右胸にほんのりとした手の暖かさを感じながら、清涼な水の中に浮かんでゆく感覚を感じていた。その水の向こうに、見たことの無い男の人の顔がうっすらと現れた。私が誰だか良く見ようと意識を輪郭のはっきりしないその顔に向けた時、水槽のガラスが割れて飛び出したように、勢い良く水が溢れだす流れに体が引き裂かれるような痛みを覚え、驚いて目を開けた。

「寝ちゃった?大丈夫?」

心配そうな彼の顔が目の前にあった。私は一瞬起きたことが理解できず、勢い良く立ち上がった。店内の幾人かがこちらを怪訝そうに見たのが目に入って、私はまたゆっくりと座った。

「夢を見たの?大丈夫?だいぶ疲れているみたいだね。お水をもらってくるよ。」

席を立つ彼を見送りながら、席の一番端を見たが、少女はいなかった。頬杖をついて考え事をしている間に夢を見たようだ。とてもリアルな夢で、痛みは無くなったが胸に少女の手の温もりが残っているようだった。私は荒くなった息を整えるように深呼吸を何度か繰り返した。

「はい。・・ゆっくり飲んで。」

彼は貰ってきた紙コップのお水を、心配そうにそっと手渡しながら、覗き込むように言った。私は受け取りながら、まだ少し荒い息のままお礼を言った。

「ありがとう・・。ごめんなさい。変なとこ見せちゃって・・。夢を見たのね・・恥ずかしいわ・・。」

「大丈夫。疲れているんだね。早く帰って休んだ方が良いんじゃない?」

おためごかしでなく、心配してくれている彼の気持ちが伝わって来て、私の心を少し暖めてくれたようだった。私は腫瘍を抱えている自分の健康状態が、自分が思うより深く精神的にこたえているようだった。涙があふれて来た。私はハンカチで目の淵から涙を拭い、黙って優しく見ていてくれる彼に、今見た少女の夢の事をゆっくりと話した。彼はじっと何も言わず聞いていてくれた。

「明日の休日、そこへ行こう。あの名刺の人の所へ。行ってみようよ。何がどう関連して、どんな役にたつのか分からないけど、何かがあるような気がする。」

話し終わった私に、彼がきっぱりと言った。私もその相談のつもりで今日会ったのだから、異存は無かった。

翌日の休日は、昨日の雨が3月の終わりの埃をきれいに洗い流したような澄んだ空気に、真っ白に輝く雲が鮮やかな明るい青の深さを引き立てた、まるで絵画のような空だった。朝、名刺の住所の近くの駅で待ち合わせた私と彼は、その昔「どや街」と呼ばれていた、木賃宿が今でも並ぶ古い下町の細い路地を、その界隈には似合わない観光客のように地図と建物を見比べながら歩いていた。路地はまるでよそ者を拒むように似た景色を繰り返し、訪問者の感覚を狂わせた。澄んだ空気を通してやってくる朝の光は思ったより強く、影になった場所を余計に暗く見せた。

「この辺だと思うんだけど・・。」

彼が前もって道順を記しておいた地図の目印にした建物を見上げ、彼がつぶやいた。

私たちはそこと思われる番地をたどって、細い路地をひとつづつ覗き込みながら歩いた。その場所は、突然現れたように入り口から明るい光を放ち、前に敷かれた緑色の玄関マットを照らしていた。私たちはさっき路地の入り口から眺めた時はまったく気がつかなかったこの光景に顔を見合わせた。その店・・たぶん元は店だったのだろう・・は、三間ほどの間口の入り口にガラスのサッシが6枚引き違いにあり、その上部には大きな看板がかかっていた。しかし、その看板には文字は無く、白くペンキで塗りつぶされていた。

「ここだね・・。」彼がその看板を見上げながら言った。

「うん・・。」

私は何故か少し緊張しながら答えた。私は自分が緊張している理由が、何となく自分の今抱えている、病気かも知れないという状況が原因しているような気がした。だが、それをこの緊張感にどう関連付けて良いか解らなかった。精神が混乱して来ているような漠然とした不安があった。

私たちは入り口に立って、サッシのガラス越しに中を覗いてみた。中は思ったより広く、入り口右側の壁沿いには物置になっているらしいガラスケースがあり、それに並ぶように置かれた木製の机の前に、白衣のような白い服を着た初老の女性が座って何か書き物をしていた。左側の壁沿いにはずらりと丸椅子が置かれていた。その丸椅子のひとつで女性が一人、帰りの身支度をしているようだった。机の初老の女性と身支度の女性の間、つまり店の中央はなにも置かれていない。私はベージュ色の重歩行用ビニル床材が敷かれた、白い壁のその空間が、マホガニーの机の前に座るその女性を中心に広がっているような感覚を覚えた。

「それでは先生、ありがとうございました。」

ダークブルーに同系色のペイズリー柄が入ったパシュミナ・ショールを巻き、どこかのファッション誌で見た事があるような、チャコール・グレーに濃い臙脂のバイアスが入った、ウールニットのスーツを細身の体に着た品の良い中年女性が、中央のサッシドアを開け、奥に向かって一礼して出てきた。後ろ手にドアを閉めたその女性は、きっちりとアップに纏めたつやのある栗色の髪に髪留めを止めなおし、濃いアイラインを引いた目元を訝しげに私たちに向けながら軽く会釈をして、どこか高級ブランド店で嗅いだ事のあるような気がする香水の残り香と、良く光るエナメルのハイヒールの音を残して、私たちが入ってきた路地の入り口へ向かって歩いていった。私たちは何とはなしにそれを見送った。路地の入り口に、黒塗りの高級車が止まるのが見えた。私たちは顔を見合わせ、意を決したようにドアを開けた。さっきの女性の残り香の他、店内にお客はいないようだった。一目で見渡せる四角い形の店だから、「いない様だ。」と思うのは、何か変なのだが、「先生」と呼ばれた女性以外、なぜか誰もいないと確信できない気配があった。先生の後ろ、入り口左側の丸椅子は7~8脚あり、奥には5脚ほど積み上げられていた。(こんなに混むときがあるのだろうか・・)私はそう思いながら、彼とドアの敷居をまたぎ、ドアを後ろ手に閉めた。先生は私たちにまるで気がつかないように何か書き物に集中していた。手元を見ると、彼の友人と同じように「ダウジング」をしているようだった。机の上には彼の友人が使っていた円柱より何倍か大きな銀色の円柱に、やはり太い鎖がついた物があった。先生は右手でペンとをそれを交互に持ち替えながら何か調べているようだった。私たちは何と声をかければ良いかと所在無げにドアの前に立ったまま、その様子を見ていた。

「何か御用ですか?」

先生は机を向いたまま、落ち着いた声で聞いた。

「あ、あの、紹介を受けて・・。」

彼が彼の友人の名を挙げ、紹介を受けてここへ来た事を告げた。

「そう・・・。あの子、精進しているようね・・。」

しばらく何事か考えていたようだった先生は、彼の友人を指してであろう、独り言のようにそう言った。

「そこへ座ってください。」

やさしい声でそう言うと、先生は机に向き直り、先ほどまで何か書いていた紙に円柱をかざし、くるくると回る事を確かめるとその紙を破いて捨てた。

「どうぞ。」

彼が先生の横、先ほどの女性が座っていた丸椅子をさし、(先に行って)と手で私に合図をした。私は着ていたベージュのコートを脱いでたたみ、座りながらバッグと一緒にひざに置いた。

「荷物はそっちに置いておいて良いわよ。時計はずしてね。」

先生は私の顔を見ながら言っているのだが、私にはなぜか先生の表情・・いや表情どころか、どんな顔をしているのかさえ良くつかめない。まるで見た事が一度も脳の記憶野へ送られていないかのようだ。不思議な感覚にとらわれたまま、私はひざの荷物を彼が座る椅子の横に置き、バッグからハンカチを出し、時計をはずして中へしまった。椅子に座りなおした私に先生が聞いた。

「お名前は?」

私がフルネームで答えると、先生は彼の友人がしたのと同じように、メモ用のA4サイズの紙に黒いサインペンで私の下の名前をカタカナで書き、その上に銀色の円柱をゆっくりかざした。彼の友人と違って、先生は名前の下に数字など何も書かなかった。少しの間をもって、私の名前の上でじっと動かなかった円柱が、ゆっくりと回り始めた。鎖を持つ先生の手は、大きく回り始めた円柱に引きずられるように動き始めた。先生はそのままかざしていた手を円柱と共に名前の上からはずすと、円柱を机にゆっくり置いた。ゴツンと重そうな音がした。机の上には何本もの赤と黒のサインペンが乱雑に置いてあり、キャップが外れたままのものや、赤と黒のキャップが入れ違ってかぶせてあるものもあった。机にも先生の手にも赤や黒の落書きのような、ペンのはみ出した跡がついていた。多勢の人がここを訪れたらしい。そのはみ出したペンの跡が、まるで繁華街の人通りのような喧騒を運んできた。

「お忙しかったんですね・・。」

私は思わず口をついて出た言葉に、自分でも少し驚いた。

「何か見えたのね?」

先生はこちらを向いて、厚めのレンズがはまった鼈甲色の眼鏡の奥から光を放つような瞳でまっすぐ私を見ながら、きっぱりした口調で聞いた。

「はあ・・。」

(あれ、眼鏡をかけていたのか・・。)私はようやく見え始めた先生の顔を確かめるように見ながら、呆けたように返事をした。

「何か信じている宗教があるの?」

唐突に先生が聞いた。たまには占いをしたり、どこかの縁日やお祭りでおみくじを引いたり、お賽銭をなげてお願いをしたりなど、ごくごく普通にしているが、特に何か「宗教」と呼べるものを信じているわけではなかった。(神様!お願いします!)などと思う時も、特になに教のなに神なぞと思うことは無かった。

「いえ、自分では無宗教だと思います・・。」

「・・そう。」

どこか上の空のような感じで先生が答えた。

「・・あの子、自分の手に負えないって言ってたんでしょ。それでここへ行くように言われたのね。背伸びをしなくなったのね。少しは大人になったようね。」

『あの子』が彼の友人を指している事はすぐに分かった。私は彼の方を見た。彼は真剣なまなざしでこちらを見ていた。店の中は先生と私たちしかいないし、外は車も通らず、休日の明るい昼前だが人通りも少なく静かなので、彼にも先生の話は聞こえているはずだった。

「・・何か良くない事があるんでしょうか・・。手に負えないくらい・・。」

私は恐る恐る聞いてみた。しかし、すぐに質問の仕方が幼稚だったと気がついた。もし「良くない」と言われた所で、何がどう良くないのか質問した私がそれを特定していなかった。聞くなら私が抱えている腫瘍の事を特定して聞くべきだったが、勇気がでなかった。私はハンカチを握りしめた。

「本当は良くない事なんて人間には無いの。病気と言うのも人間には無いのよ。皆、嘘を信じて不都合になるの。」

先生は少ししかつめらしい顔で答えた。だが此方を見た眼鏡の奥の目から、やさしい光が見えた。私は先生の言っている意味は全く分からなかったが、私は今私の意識している自分では無い、まだそこに居ると私自身がはっきり認識していない自分が先生の言葉を理解したような気がした。その自分は自分の病気・・腫瘍に、重大な理由がある事を直感した。初めて自分になにかもっと高い・・いや、透明で曇りの無い自分を感じた。なぜか胸がいっぱいになり、涙が溢れそうになった。下を向いて堪えている私に先生がやさしく言った。

「心配事があるのね。話してしまうと良いわ。」

私は目の淵をハンカチで押さえ、深呼吸をして気持ちを落ち着かせた。私はあのコーヒーショップの店内を思い出しながら、初めて黄金の少女を見てからの事を話した。私が話している間、外の人通りも無く店内は静まり返り、その静寂が集めた私の言葉が、先生の意識にしみこんで行くような感じがした。『聞く』と『聴く』の違いを、私ははっきり感じていた。先生はじっと宙をみつめたまま、私の話しにときおりうなずいた。まるで私ではなく、先生の視線の先にいる誰かにうなずいているようだった。

話終わった私は、胸にこみ上げて来る物が、流れ出てしまわないように抑えるのが精一杯だった。今日初めて会った人間に、自分の心配事を正直に話せる自分にも驚いていたが、何より自分の事を誰かに聞いて欲しかったのだと、はっきりと分かった事が意外だった。先生は途中で質問をしたり、何か意見を言ったりする事は全く無く、ただ黙って聞いていた。私は以前から自分が何か話そうとすると、黙って聞く事が悪い事だと思っているような大げさな同意をされたり、筋とは違う質問をされて話が変わって行ってしまったりする事になりがちで、自分の真摯な思いを誰かに聞いて貰えたという実感を持てた事が無かった。どうでも良い話はそれでも仕方ないと思うのだが、特に自分が聞いて欲しい事に対してそうなってしまうのは耐えがたかった。勿論、全く何も言わず聞くような人間もいたが、何を考えているのかこちらが不安になるような黙り方ばかりだった。私は自分が話し手で、先生が聞き手なのに、心を揺さぶるような良い話を聞かせて貰ったような感動に包まれ、鳥肌がたった。涙があふれて止まらなくなりそうだった。私は子供のように嗚咽しそうな自分を、(大人でしょ。恥ずかしい。世間体をかんがえなきゃ。)と言い聞かせて堪えていた。もしかすると母親が植え込んで来た『世間体』は、私の心の見えない所でしっかり根付いていたのかも知れない。自分では世間体など、常識的な程度にしか持ち合わせていなかったつもりだった。だが思ったよりその根の引力は強く、感情が変形するような苦しさを初めて認識した。自分がいつも自分の気持ちに素直になれず、曲げようとして力を掛けてしまう心が『感情』というエネルギーを生み出し、これをまた別の常識の根が引き戻すように変形させて行く様が、ありありと解った。この感情は黒い雲のように広がり、誰かに吐き出してしまいたい衝動に駆られた。握ったハンカチに力がこもった。

「大丈夫よ。」

先生の全く普通な一言が、植え込まれた『世間体』をその雲と共に根こそぎ抜き去った。私の今の気持ちを堪える理由が無くなった。霧が晴れるように心がまっすぐになり、自分の気持ちが強烈にいとおしくなった。ハンカチで顔を押さえながら私は声を上げてしゃくりあげながら、気が済むまで泣いた。

何か書いてはダウジングで確かめていた先生は、あらかた調べ物が済んだらしく、ようやく泣き止んだ私の方を見てやさしく微笑んだ。

「落ち着きましたか?」

目をはらして鼻をすする私はまるで子供のようだった。まさか初対面の相手の前で、こんなに素直に泣ける自分がいるとは思ってもいなかった。だが、心はすがすがしく、今度はうれしさで満たされ始めた。今、私には『自分』がいる事をはっきりと認識した。すべての人間が同じように自分を大切にし、その気持ちを互いに認め合っている事が、自分の心の深いところにはっきりと写し出された。『世間体』とはこれを捻じ曲げて解釈した結果である事がはっきり見て取れた。自分の中にある普遍的なものと出会えた気がした。

「すみません・・。なんか・・ありがとうございました・・。」

私は何と言って良いか分からなかったが、聞いてくれた感謝を言いたかった。

「話してくれてありがとうね。心配する事は無いわ。この世界はきちんとした法則でできているのよ。寸分違わず、その法則の通りに物事は進んで行くの。その法則を少しでも理解する事は、喜びを持って生きる為に是非必要な事だわ。」

私は先生の言わんとしている事がすぐに理解できなかった。

(法則?科学のこと?物理学?・・)

「それは、全て未来はもう決まっていると言うことでしょうか?」

私は自分でも良く理解しない内に口をついて質問が出てしまった事に、少し戸惑った。

「うふふ。法則とはそう言う事では無いわ。貴方がなにかしようと思ったとき、その思いに従った法則が働くという事よ。もし間違った思いで間違った法則が働くと、思ったことにはならないのよ。」

可笑しそうに先生が言った。私は少しきょとんとしていた。先生の言葉を理解しようとして、かえって思考が停止してしまったようだ。私のそんな様子を察して、先生が言った。

「すぐに理解するのは無理よ。『そんなもんか』って思ってみる事が大切なのよ。まあ

何度かいらっしゃい。その内に解るようになるわ。じゃ、そっちを向いて座って。」

先生は入り口の方を示し、私は言われるまま先生に背を向けるように入り口を向き座りなおした。私は彼をちらりと見た。彼は腕を組んでうなだれ、寝ているようだった。先生は私の背後から私の肩に手をかざした。やんわりとした先生の手の温度が感じられた。その暖かいような感じから、小さな白い光る泡のような粒の感覚が体全体に広がった。ただ、右胸と右足の付け根に黒い何かが張り付いている感覚があった。私はそれを先生に言ってみた。

「そうね、もう少しね。あわてなくて良いわ。本当の自分は不都合や病気の原因をみんな知っているのよ。難しい事は考えず、自分に任せてしまうとよいわ。」

どう解釈すれば良いか解らなかったが、もともとここで起きたこと事態が既に私の理解の範疇を超えていた。だが先生が言うように「お任せ」だと思うと、気持ちが宙に浮かぶほど楽になった。先生は、先ほど書いていた紙を巻物の様に巻いて筒を作り、それを持って入り口のサッシの外へ出た。手の中でその巻物をまわしながら、先生自身も何かに集中しながらゆっくりと回った。私は頭の方からだんだんに下へ向かって痺れるような感覚が降りて行くのを感じた。先生が外で回るスピードにまるで呼応しているようだ。先生は巻物についたゴミでも払うように手でパンパンとたたくと、またサッシを後ろ手に閉めて入ってきた。椅子に座る私の前に俯いてしゃがみ、私の両膝に巻物を持ったまま手をかざした。電気に打たれたような強い痺れが一瞬膝から足の裏に抜け、私は驚いて椅子から飛び上がりそうになった。

「ひゃっ!」

私は思わず少し声が漏れた。だが先生は何かに集中しているように、それには全く動じた様子がなく、手をかざしたまま俯いていた。

「あの、この感じは何なんですか・・?何が起きているんでしょうか?」

私は思い切って何が起きているのか聞いてみようと思った。ここへ来ておきた事を自分に理解させる理由を考えようとした。泣き出したりそのあと気持ちが少し軽くなったりするのは、精神的なカウンセリングに似ているのかも知れないと何処か心の隅で思おうとしていた。しかし今のは説明のしようが無い。先生はすぐには答えず立ち上がり、私の後ろへ回って背中に手をかざしているようだった。背中の真ん中の背骨辺りが柔らかく暖かくなってきた。幸せな高揚感が心を満たしてゆく、不思議な感覚だった。

「そうね、言っても解らないわ。」

びっくりするほどそっけなかった。だが不思議と厭な感じがしない。(そんなもんか)と思う程度だった。こだわって聞く事が、今のこの自分が持った感覚を鈍らせて行くような感じがした。今はこの高揚感に少しでも長く浸っていたかった。何か、順番を間違えて引っかかっていたものが並び直されて行くような感じがした。私は考えるのはやめにして『そうなんだ』と思うことにした。

「まあ、少し通ってみなさい。」

先生はそう言いながら、「今日は終わり。」と言うように私の背中を軽くポンと叩いた。

「本来、人間には病気も不都合も一切無いのよ。人間の間違えた『思い』がその本来を狂わせて行くの。それが病気になったり、生きる上の不都合を呼んだりする事になるわ。まあ、そう言っても通り一遍の解り方しか、今は出来ないでしょうけど。」

先生は席に戻りながら独り言のように言い、彼に向かって「どうぞ。」と言った。私は彼の横に置いた荷物の方へ戻った。彼は私と入れ替わりに先生の横に座りながら言った。

「『間違えた思い』って言うのは、『うそを信じている』って言う事ですよね?」

「あなたあの子のお友達ね?あの子がそう言ったのね?」

先生が微笑みながら彼に言った。彼は子供のように大きく頷いた。

さっき、私の心に浮かんだ『世間体』も、ひとつの社会的な嘘だな、と私は話を聞きながら思った。

「あの子、生まれた時心臓に穴が開いていたのよ。手術できるようになるまで待って、手術するはずだったの。でも、母親がある人の紹介でここへ連れてきたのよ。それが最初ね。」

先生は彼の方を向きながら話した。私は驚いて一瞬思考がとまった。彼の驚きも大きかった。

「ええっ!・・それは知らなかった。じゃ、手術は成功したって言う事ですね?」

「いいえ。手術はしなかったわ。」

先生の答えは意外だった。だがこの間会った彼の友人は、病気を抱えているようには見えなかった。先生が続けた。

「毎日穴が小さくなり、ここへ来てから半年後にはすっかり無くなっていたわ。」

「えっ!じゃあ、自然に消える場合もあるんですね。」

彼は断定とも質問とも取れる、微妙な語尾のイントネーションを残した。先生は笑い出した。

「ほほほ、そうね、自分で『間違えた思い』をただせるなら、『自然』に治る事もあるけど、あの子の場合は母親が白状したのよ。」

「・・・」

彼も、二人の話を聞いていた私も言葉を失った。(白状?)どう言う意味があるのか、皆目検討がつかなかった。まさか母親が、自分の子供の心臓に穴が開いている等と嘘をつく事も無いだろう。だが『白状』と言う言葉は、普通『嘘』とセットのはずだ。

「・・白状って、どういう意味ですか・・?」

彼がやけにゆっくりとした口調で聞いた。自分なりに解釈しようとして、そちらへ集中力の半分を持っていかれているようだった。

「聞かれたから言うけど、そんな事もあるんだなって言う事で聞いて頂戴ね。あまり深く思われると、間違った方へ行ってしまうからね。」

私たちは先生が言わんとしている事が、頭での論理的な思考の範疇で理解不能である事は間違いなかったのに、心では「そうだな」と妙に納得していた。

「何度目かにあの子の母親が来たとき、なにか隠し持っているような気がしたのよ。それが何なのか良く分からなかったんだけど、それにとても大事な意味があると思ったの。だからちょっと怖かったんだけど聞いてみたのね。『なにか隠し事があるでしょ。』って。そうしたら最初はとぼけていたんだけど、『隠し事がある』って書いて、センサーが反応する所を見せたの。」

「センサーって、その銀の円柱ですね?ダウジングの。」

彼が机の上にある銀の円柱を差して言った。

「そう。『ダウジング』って言う事もあるのね。誰かも言っていたわね。私はセンサーって呼んでいるわ。『嘘』には反応しないけど、『事実』には反応して回るのよ。ちょっと持ってみる?」

先生は銀の円柱についている太い銀の鎖を持ち、それを彼に差し出した。

「おおっ!重い!」

先生から円柱の鎖を渡された彼は、予想していなかった重さに両手で思わず鎖をつかんだ。彼は私を見て、(持ってごらん)と言うしぐさをした。先生が笑顔で振り返り、私を促した。私は先生と彼のそばに行くと、彼からゆっくり鎖を受け取った。ずしりと見た目よりかなり重い円柱だった。

「手でわざと回すと、回り方が違ってしまうのよ。」

確かに先生が書いた文字にかざした時に回るように手で回すためには、手を大きく揺らし、先に回転を与えなければこの重い円柱は回らなかった。しかもそれでは鎖も一緒に動いた。しかし、先生が文字にかざした時、鎖も手も動かず、円柱だけが鎖を中心にして回った。そんな回し方は手では出来ない。

「同じ事を、あの子の母親にもしてもらって、センサーを私が回してはいない事を解ってもらったのよ。結局隠し事があることを認めたわ。あの子の母親はあの子が生まれる前から付き合っている男性がいたのよ。ご主人と結婚する前からの付き合いを続けていたらしいんだけど、あの子の父親が今のご主人でないかもしれないと、生んだ本人もうすうすわかっていたのね。」

彼の手が少し震えているように見えた。

「あいつの家族には良く会います。・・でもまさかあのおかあさんが・・。大人しくて控えめな女性なので、そんな事が出来るようには思えない・・。それに、あいつの心臓の穴と母親の行動にどんな関係があるんですか?確かに母親がそう言ったなら、あいつの親父はいまのあのおじさんでは無いのかもしれないけど、それがあいつの心臓に穴を開けたって言うんですか。」

彼は珍しく動揺しているようだった。

「そうね。そこには何か見えない法則があるのだけれど、私もそれは今まだ具体的にうまく説明できないわ。ただ感じてもらうしかないの。いずれわかる日がくると思うわ。あの子のような例は沢山あるのよ。私がここでこの事を初めてもう40年になるけれど、本当に沢山の例を見てきたわ。特に自分の生まれに関わる嘘は、本人だけじゃ無く、関わる全ての人に不都合をもたらすの。病気だったり、破産だったり。」

「浮気の子は病気になるって言う事ですか。」

彼の声は冷静だったが、何か少し怒りのような物がまじっているようだった。まだ彼のそばに立っていた私は、ふわっと薄く異臭がただよったように感じた。先生は少し驚いたように彼の顔を見て、少し何か考えているようだった。なぜか彼が心配になった。私は壁際の丸椅子を引き寄せ、彼に並ぶように座った。彼はちらりと私を見たが、すぐに先生を見つめなおした。先生が彼を見て話始めた。

「う~ん・・あなたの考えている意味だと違うわ。嘘が問題なのよ。・・わかってもらえるかどうか解らないけど、よく聞いてね。自分の感覚を信じて。感情に負けてはだめよ。私の言う事実をあなたの感情が認めないと云う事もあるでしょ。私が言う事実って言うのは、この世界で現実に起きた事を言うの。事実は人間の心の思いでその人の中で真実になるわ。でも、もし事実と違う事を心に思ったら、それはその人の真実だけれど、事実とは違うから、事実の生活に不都合を生むのよ。ちょっと難しい考え方かも知れないし、言葉は狭い事しか伝えられないから注意して聞いてね。私の言っている事は、私には事実だけれど、あなたにとってそれがどうかはあなたが決めるしかないの。だからあなたがどう理解するかはあなた次第だわ。でも、感情が否定するのはその事実が無かったという事ではなくて、その事実を受け入れられない何かがあるからなの。つまり受け入れないという事で事実があることを自ら事実にしているの。でも感情はそれを認めようとはせず、事実を無かった事にしようとするわ。その為に嘘をつくのよ。そしてその嘘があなたの真実になると、沢山の不都合を生むの。・・言葉でうまく説明できなくてごめんなさいね。」

先生は少し悲しそうな顔をした。私は先生には、あやまるような落ち度など全く無いように思った。たしかに説明してくれている内容は、特異なもののようだ。私もはっきりと理解できたとは思えない。だが、とても大切な何かを説明してくれていようとしている事だけはわかった。静かで穏やかな感動がやってきた。きれいに晴れ渡った空の下、広大な海原を大きなうねりが陽の光を浴びてきらきらと輝きながら進んで行く景色が突然脳裏に浮かんだ。(事実を思いが受け入れて真実になる・・。自分の真実と事実が違うと不都合になる・・。)私は脳裏に浮かんだ波を見ながらゆっくりと先生の言葉を頭の中で反芻した。静かにゆっくりと波はうねり、輝く陽の光は柔らかく私を包み始めた。光の中に、私の母親らしき女性と、見た事があるような感じの男性が浮かんできた。二人は寄り添い、ゆっくりと揺れるように歩いていた。時折母親が背の高いその男性を見上げ、微笑んだ。まだ若い母親のその表情は、感動するほど美しかった。母親を見下ろす男性も優しく微笑み、母親をどんなにいとおしく思っているか、その表情いっぱいにあらわしていた。紛れも無く、二人には何かが流れていた。大きくてやさしく、そして力強いその流れ。これは何だろう。この幸福感は。母親の?その相手の男性の?・・いや、私にも感じる・・。まさか・・この男性は・・。

「僕は手術を受けたんです。でもそのお陰で、今この歳まで無事で順調です。私も何かの嘘が原因だと?確かに僕の父は僕の本当の父ではありません。僕は母の私生児だったんです。僕がまだ赤ん坊の時に本当の父親とは結婚する前に死に別れたそうです。嘘は無いと思います。」

彼の衝撃的な発言に、私は夢から覚めたように我に返り、わかりかけた何かが霧散して行く感じがした。私は彼を見た。表情の少し暗い陰に、その事実が彼に与えている影響が表われているようだった。

「ああ、それでね。良く話してくれたわ。兄弟はいる?」

先生は驚いた様子も無く、淡々と聞いた。彼は少し拍子抜けたような表情になった。他人がその話で驚いてくれる事が、ともすれば苦痛になる特異な出来事を、ある種の自慢として開放していたのかも知れない。少し不安そうな表情に変わった彼は、気弱そうな声で答えた。

「いえ、兄弟はいません。一人っ子です。父の正妻にも子供はいません。だから母との間に私が生まれたと聞いています。」

先生は矢継ぎ早に彼の両親や叔父、叔母の名前を尋ねては紙に書き、そこに何か書き加えてはダウジングを繰り返した。静まり返った店内に、先生が取ったり置いたりする度、銀の円柱は「ゴツン」と鈍い音を立てた。私はなぜかじっと耳を澄まし、その音を注意深く聞いていた。

「そうね。あなたと歳の近いもう一人がいるわね。」

突然静寂を破って先生が言った。

「そんな・・。僕の兄弟と言うことですか?」

彼の顔色が変わったような気がした。声が震えた。

「どうしてそんな事が・・。」

「いいのよ。そうかもしれないって思ってみるだけで。それにあなたの場合、手術で良くなったんだから、それでいいのよ。勿論、原因を知っていた方が、この先の不都合はなくなるけど。」

先生は淡々と言った。対照的に、彼はこだわっているように見えた。

「それはつまり僕の父か母に僕の知らない子供がいると言うことですよね。それはちょっと考えにくい。いや、あの両親に限ってそんな事はありえない。」

頑なに言う彼の気持ちもわからないではなかった。自分が覚えていないような小さい時とはいえ、自分の病気が原因で、両親はどれだけ苦しんだのだろうと思えば、簡単にその当の両親の嘘が病気の原因だと思うのは難しい。だがしかし、彼は自分から病気の原因は何か尋ねたはずだ。それなのに自分の気に入らない答えだと、受け入れようとしないのは、私に大きな違和感をもたらした。いま喋っているのは彼じゃないような・・。

「そうね。いいのよ。思いたくなければそう思わなくても。これは嘘を『あばく』事が大事で、『さばく』事をしてはいけないのよ。嘘は『あばく』事で消えるの。その上さばくのは『復讐』と同じなのよ。そんな事をすれば、新たな『うらみ』の中に、また嘘が生まれるわ。だから許せそうも無い事は、ひとまず忘れてね。」

先生が説明している間、私は横に座る彼を先生を見ながら目の端に入れて注意深く意識を向けた。彼が椅子から上体を揺らすと、もう一人の彼はそのまま椅子に残って、まるで腰から二人が生えているように見えた。私は驚いて「ひっ!」っと声をだして立ち上がり、彼を見た。私の錯覚だったようだ。驚いて私を見る彼は、いつもの普通の彼だった。

「また何かみえたのね?」

先生が表情を緩めて私に言った。

「いえ・・。錯覚です・・。たぶん・。」

私はゆっくりまた座りなおした。

「おやおや、ちょっと穏やかじゃないなぁ。今、僕を見て、なんか怖いものでも見たように驚いてなかった?どう言うこと?」

彼がちょっと嫌味のある笑い顔で、投げやりに言った。こんな彼は今まで見た事が無かった。彼から背の高い、痩せた青白い男の人が立ち上がったように見え、すぐに消えた。私は思わず両手で口を押さえ、声を出すまいとした。不安で体が震えた。

「何、どうしたって言うのさ。」

彼が少し焦燥したように言った。先生はその彼と私に向かって「えいっ!」と空に手刀を切った。私の体に何かが当たり、暖かさと共にゆっくり広がって行った。嘘の様に不安が掻き消え、笑いがこみ上げてきた。彼も同じだったらしく、私たちは顔を見合わせて笑った。

「何、何。何があったの。いったいどうなってんの。」

彼は笑いながら私と先生に外人のような身振りをしながら聞いた。

「なんかね、細い青い人があなたから立ち上がったのよ。びっくりしたわ。」

落ち着きを取り戻した私と彼は、にこにこと黙っている先生をよそに今の事を話した。

「へぇ。何か憑りついてたのかね。」

「『思い』ね。何かやはりあるわね。人間は『思い残す』事があるのよ。そんな人間は自分が死んでしまっても、それをしらずにさまよってしまうの。同じ『思い』の境遇を持つ人間や、それが解る人間に訴える時があるわ。それが不都合を生む一つの原因なのよ。」

先生は私たちを交互に見ながら言った。

「じゃあ僕には思い残した誰かの思いが憑いていると?」

先生に質問する彼に、私が答えた。

「私にはあなたについている思いを頼りに、同じ境遇だった誰かが見えたわ。」

私は先生の話を聞き、彼に重なって見えた何かがわかったような気がした。思わず口をついてでた。

「そうなの?それは誰なの?」

彼がまた心配そうな顔つきになって私に聞き返した。

「・・わからないわ・・。」

私は不安になってきた。

「さっき、私たちに投げた何かは何ですか?」

私は不安を消すように話題を先生に話題を振った。

「『力』よ。そう言っても私が力を出したわけじゃないから誤解しないでね。私はただきっかけを作ったに過ぎないわ。実際それを力に変えたのはあなたたち自身なのよ。」

説明を聞いても、何か良く分からなかった。

「いいのよ。深く考えない。深く感じなさい。『そんなもんか』って思えばいいのよ。それにしても、あなたは『思い』の一部が見えるようね。子供の時からなの?」

先生は私を見つめてそう聞いた。意識した事が無かった。感の良い子供だった事は、叔母から聞いたことがあったが、母や父からは私の子供時代の話はあまり出た事が無かった。

「良く分からないんですが、最近は何だか不思議な事が多いような気がします・・。この間もそう言えば、病院の天井に白い患者服を着た一列に並んでいる人を見たような気がします。」

私は検査に行った大学病院で見た事を思い出した。先生はうんうんとうなずいた。

「この人に在る隠された『思い』が見える?さっき見えたのはその『思い』に引き寄せられた同じ境遇の人ね。」

先生は大胆な事を言っているように思えた。私にそんなものが見えるのだろうか。

「彼女に見て貰ってもいいわよね?」

先生は彼に聞いた。彼は小さくうなずいた。

「先生、どうやれば良いんですか?怖くないんですか?私に憑いたりしませんか・・?」

私は戸惑った。そんな事は考えた事も無かったが、なぜか私の感が危険だと言っていた。

「しばらくは、ここで私の前だけにしなさい。自分に呼び込まない方法を理解しないと危険だからね。でも、あなたには何か素質のようなものを感じるわ。」

やっぱりそうなんだ。危険な感じがすごくしていた。だが同時にやって見た方が良い気持ちも大きくあった。この気持ちが素質なのだろうか。

「『思い』は『音』なのよ。良く耳を澄まして聞いて御覧なさい。何か先に聞こえてくるはずなの。その時を捕まえるの。その時、緊張しすぎてはだめよ。過度の緊張は恐怖を呼ぶわ。怖がってはだめ。その恐怖を糸口にとり憑こうとするのよ。だから怖がらない。そして決して深追いしてはだめ。少し見えたら別のことを考えなさい。もしこちらの意識を悟られて、とり憑こうとしたら、『わかった』って声にだしてね。思い残した事は、わかってあげると消えるのよ。」

先生はいとも簡単そうに言っていたが、私にはとうていできそうに無い。もう既に彼を見られないほど緊張しているのだ。

「えいっ!」

さっきと同じように私は先生の空を切る手刀を受け、落ち着いた気持ちで彼を見た。一瞬赤子の鳴き声が聞こえた気がした。かれの周りに何人か白衣の男の人たちと、赤ん坊が見えた。私はまた大きな声を出しそうになり、両手で口を塞いで立ちあがった。その赤ん坊の胸は、大きく切開され、心臓が脈打っているのが見えた。

「えいっ!」

再び先生が手刀を切った。見えていたものは消え、同時に恐怖も消えた。

「この人の子供の頃の手術の様子なのかしら・・。大勢の医者らしき人たちに囲まれて、胸を切り開かれた子供が見えたわ。・・待って・・・あれ?これは・・?」

先生が鋭い声で言った。

「よしなさい!それ以上行ってはだめ!」

先生の声がうっすらと聞こえたが、私の目の前には胸を切り開かれた子供を中心に、回りにいる医者らしき人間の姿が刻々と変化して行き、ついには腰蓑をつけ、原始的な石器を手にした男たちがその子の心臓を鷲づかみにした所が見えた。

「・・キャーッ!」

私が叫ぶと同時に、椅子から立ち上がってきた先生が、私の背中を平手で強く叩いた。私は咳き込みながら、何か霧のような物を吐き出したが、すぐにその霧はうすれて消えてしまった。先生が背中をさすってくれた。

「・・大丈夫?」

「先生・・今のは・・・。」

彼が驚いていた。

私に悲しみがこみ上げてきた。何世代・・人間の歴史が始まって以来、さっき見えた赤子は何度も何度も生まれてきては胸を切り開かれ、心臓を・・。私は嗚咽しながらその子の『思い』に泣いた。

「・・こんな事って・・これじゃぁ生贄じゃない・・。生きたかったのに・・。」

先生はずっと背中をさすってくれていた。その安心感がゆっくり広がり、その子が安らかな寝顔を向けた所が見えた。なぜか頭の中に『北海道』と聞こえた。

「先生・・『北海道』って言ってます・・。」

私は目をつぶりながらゆっくりと言った。

「なんだって?!北海道!」

彼が鋭く言った。私は酔っ払ってしまったように朦朧としていたが、先生がさすってくれる背中から全身にきれいな空気・・いや力が流れて来て、とても気持ちが良かった。

「何か心当たりがあるのね?」

先生が彼に言った。

「僕、北海道で手術を受けたと聞いています・・。」

それを聞いて、私は全身がしびれるような感覚が襲ってきた。体が硬直した。それを感じてか、先生の背中をさする手が早くなった。

「なるほどね。そこに答えがあるわね。まあ、焦る事はないわ。こんなにすぐに核心に近づけるのは珍しいのよ。」

先生は私の硬直した背中をさすり続けてくれた。また、大きな波のうねりが見えてきた。光が強くなり、若い母親と男の人が揺れるように歩いている姿がまた浮かんできた。先ほどと同じだ。心に暖かい何かが満たされて行く。・・この二人は本当に愛し合っていたんだ・・。なぜか確信に近い思いが強くやって来た。だがこの男の人は今の私の父親では無かった。右胸と右足の付け根が熱を持ってきたように感じられた。先生がまた背中を叩いた。

「あまりいっぺんに遠くまで行かない方がいいわね。そのくらいにしておいたら?」

先生が優しく言った。私は気持ちよく目が覚めた朝のような気分を味わっていた。右胸も右足も違和感が取れ、思いっきり体を動かしたい気分だった。

「さあ、二人とも今日はこの辺にしておきましょう。」

先生はそう言うと席に戻り、また何か書いては銀の円柱で真偽を確かめているようだった。私たちは顔を見合わせ立ち上がり、先生にお礼をした。

「何?この濃密な匂い・・。赤ちゃんや血の匂いまでするじゃないの!いやーねー。」

店に入ってくるなり、その50代くらいの女性は顔の前で匂いを払うようなしぐさをした。

「あら、いらっしゃい。この人たちの先祖の思いの残り香よ。」

先生はそう言いながらスプレーを使って消毒用アルコールを撒いた。

「ああ良かった。消えたわ。」

私にも澱んだ空気がクリアになるように見えた。その匂いを感じ取った、黒のコーデュロイパンツに紺地に白いトナカイが並んだようなデザインのセーターを着た女性は、壁際の丸椅子に腰掛けると私たちを交互に見ながら会釈をした。

「この人、『思い』を匂いで感じるひとなのよ。」

先生が私たちに向かって彼女を紹介した。

「この人は『思い』が見えるの。ほんとにいろいろな人が居るわねー。」

先生は今度は私を指し、その女性に紹介した。

「見えるなんてすごいじゃない。でも直接的で怖いわね。まあ、匂いも強烈だけどね。あはははは。」

先生とその人は大声で楽しそうに笑った。

私たちは駅への道を歩きながら、今その店で起きた不思議な体験を思い出していた。

「こうして店を出ちゃうと、何だか現実にもどったような、さっきまでのはなんだったんだろうなんて感じに、少しなるね。」

確かにちょっと前までは、彼が言うように、実際仕事や生活をしている世界と、精神世界と呼べば良いのかわからないが、今味わったような世界が同時に矛盾無く感じるのはとても難しいような気がしていた。あの赤子や母の愛おしくなるような美しさを見てしまう前は。

「でも、ここへ来る前は、なんだか現実世界に偏りすぎていたような気もしてきたけどね・・。僕、北海道へ行ってみようと思うんだ。もう記録も何も残っていないかも知れないけど、気持ちが行ってみるべきだって・・。」

私は彼に重なって歩く真摯な少年が一瞬見えた。頓珍漢な印象なのかもしれない。だが、言葉にしてしまえば青臭いが、正しい事を正しいとしたい、純粋な思いを感じた。

「私も行ってもいい?」

思わず口に出た。でしゃばりでおせっかいも良い所だ・・と、世間体を残していた前の自分なら思って言いとどまっていたろう。だが世間体は先生が吹き飛ばしてしまった。私は素直に自分のしたい事をしたいと言えるようになっていた。彼の顔が輝いた。

「ありがとう!すごく心強いよ!」

少年のように喜んだのは、重なって見えた少年ではなく、紛れも無く彼自身だった。

二日後会社を休んだ私たちは、早朝の飛行機に乗り千歳に下りていた。札幌までJRで30分。朝のエアポート線はビジネスマンらしき人たちで割合と混んでいた。

「スキーには何度か来たけど、札幌はその手術以来始めてかも。いつもニセコとか手稲へ直行しちゃうから。」

彼の言葉に少し驚いた。

「え?だって札幌に住んでいたんじゃないの?赤ん坊の時なんでしょ?手術したの。」

「うん。でも生まれも育ちもずっと東京だよ。札幌の大学付属には有名な小児専門の心臓手術の天才と言われた教授がいたんだ。」

その名前は聞き覚えがある。だがそれは名誉な事ではなく、何か事件だったような気がした。

「ねえ、その教授、何か最近事件を起してない?何だか聞き覚えがあるんだけど・・。」

彼の顔が一瞬曇ったような気がした。

「そう。つい3年前。その教授、まだ移植手術が日本で認められていない頃に数例の移植を実験的に行っていて、それが発覚して問題になった。後に小児心臓外科の天才と言われるかなり前の話なんだけどね。それが元で、今は退官しているらしいけど。」

「ああ、なるほどー。ずいぶん騒がれたよね。その先生だったんだ。あなたの手術をしたの。」

札幌についた私たちは、タクシーでその大学病院に向かった。まだ雪の残る曇り空の市内を、タクシーは手馴れた動きできびきびと走り、近代的な建物の病院に到着した。私たちはすぐに医療事務センターへ向かった。事務センターは、離れた病棟の一階にあり、なぜか職員室を思わせる雰囲気があった。大きな大学病院で、「事務センター」等と銘打ってある割には、都内の区役所的な風情で、20人程のスタッフが全員見渡せた。相手をしてくれた男性職員は、こう言った過去のカルテの問い合わせケースが結構あるのか、本人確認や申請書等、手馴れた手順と言った感じで粛々と進めてくれた。この病院は原則オープンの基本があり、本人であることが認められれば自分のカルテを閲覧することができる数少ない病院である事を、作業しながら何度も強調した。

二人して壁際に置かれた丸椅子に座ってカルテを待っている間、ぼうっと職員たちが忙しそうに働く様を見ていた。ずいぶんと時間がたったような気がした。

職員は大きな機械をワゴンに乗せて運んできた。私たちの前に置くと、電源を探してスイッチを入れた。少し大きめのファンの音がして機械の隙間から光が漏れてきた。マイクロフィルムの簡易閲覧機だった。職員がマイクロフィルムカセットをセットすると手馴れた手つきで操作して、目的のものだと思われるカルテのフィルム画像を示してくれた。

「送りはENDのマークがでたら止めてください。一応拡大閲覧以外はロックしてありますが念のため。」

彼は早速カルテやレントゲンをつぶさに見た。私は後ろから何気なくその様子を眺めていた。2枚のレントゲンが彼の興味を引いた。一つは紛れも無く自分の小さいときの障害のある心臓だった。だが、もう一つは明らかに健康そうな心臓だった。右下に小さく文字が書かれていた。彼は拡大を最大にした。「donor」の文字が浮かび上がった。私には赤ん坊の声が聞こえた。

「待って!その写真はあなたじゃないわ!もう一人の・・お兄さん?」

彼はそう言う私を振り返ると顔面が蒼白だった。慌てたように立ち上がると、先ほどの医療スタッフに声を掛けた。

「あの、手術記録は無いでしょうか。出来ればビデオなんか残って無いでしょうか。」

彼の要求は既に常識を超えていた。カルテを見せて貰えるだけまだ先進ではあるが、そこまで公開している医療機関は日本ではまだ皆無だった。

「無茶を言わないでください。仮に残っていたとしても公開はしていません。閲覧が終わったのならここにサインしてどうぞお帰りください。」

「待ってください!重要な事なんです!お願いです、探して貰えませんか!」

彼は食い下がった。

「良いですか、これ以上の要求はしかるべき機関からお願いします。事件性があるか、何か重大な法律違反でもあれば、裁判所には提出しますが、たとえ当事者でも個人には公開しません。しかも資料が残っていればの話です!お引取りください。」

私は彼をなだめた。とにかく普通の手術でなかったと言うことは、私も彼も同意見だった。病院の出口へ向かって二人で歩きながら次はどうするか考えていた。

「さっき『お兄さん』と言ったね・・。何か見えたのかい?」

彼が下を向きながら言った。

「うん。確かに赤ん坊を見たわ。先生の所で見た赤ん坊と同じだった。今はここに先生が居ないから、深追いはしなかったの。でもはっきりあなたのお兄さんだって感じたわ。」

「あのカルテは確かに私の物で、レントゲンも知識として調べて置いた病状の典型より奇形は大きそうだったが、聞いていた通りの病気だった・・。・・『donner』・・・。手術ではなく、移植だったのか・・?」

私たちは強行軍を決意した。このまままた飛行機で東京に帰り、彼の住む町で戸籍を取って見る事にした。彼の現在の戸籍はここへ来る前に証明として必要になる事を考え、既に取ってあった。彼の本当の父親は彼を認知していたらしく、父親の欄には認知者として記載されている。母親とは婚姻関係が無かった。

「父親の戸籍謄本を取ってみる。そうすれば僕に異母兄弟がいたのかどうか分かる・・。」

結構気丈に話しているが、彼にしてみれば思いもよらない事態になっているはずだ。心の葛藤は如何ばかりだろうか。だが、勇気を持って事実を知るべきなのは、先生が言ったとおりだと思う。

「この世界で信じられている真実っていったいどれだけ確かなんだろう。先生が言うように真実は心の物。事実とは違うかもしれないのに。あの山は雪山だと信じて歩いていたら、事実は海だったと・・・。それでも心が認めなければ、雪山で『おぼれ』てしまうかも知れないのに。」

私たちは千歳に戻り、すぐに飛行機に乗った。夕方、役所が閉まる前には余裕で戻れるはずだ。私は羽田までの少しの時間、飛行機のジェット音を子守唄に少し眠った。沢山の泣いている子供達がいた。私はその中を悲しい気持ちで歩きながら、泣きじゃくる一人の子供の声を聞いた。

(うそつきなんだもん・・え~ん・・うそつきー・)

体に感じた着地の衝撃と共に子供の声が霧のように消え、鼻の奥にきな臭いような感じが残った。

私たちは空港の到着ロビーから、タクシー乗り場へと早足で歩いた。無言で先を歩く彼の背中は、真っ直ぐ堂々としていて、彼の決意を映しているようだった。私たちは彼の戸籍に記載のあった、実の父親の本籍地である区役所までタクシーで行った。幸い彼の実の父親の本籍地は、空港の目と鼻の先だった。私たちはタクシーに揺られている間も、一言も喋らなかった。

その区役所今のエコブームを象徴するようなキャラクターで飾られたロビーは、どこか胡散臭さが漂っていた。キャンペーン用に作られたビデオが流され、「再利用」を繰り返し連呼する声が、人もまばらなロビーに響いていた。彼が役所の窓口から渡された書類を眺めながら、ロビーで待っていた私の所へゆっくりとした足取りで戻って来た。書類を掴むその手は震えていた。顔は何かを堪えるように真っ赤に硬直していた。私は書類を持つ彼の手を引き寄せ、膝から崩れる彼の頭を力を込めて抱いた。私の胸の中で、彼は声をあげて泣いた。周りを通る人は怪訝な顔で私たちを見た。彼の悲しみが私にも伝って来た。私は心の中で(良くがんばったね。偉かったね。)と繰り返した。赤ん坊の笑い声が聞こえた。彼の襟元から湯気のような物が立ち上り、子供の笑顔になったと思ったらすっと消えたような気がした。私は小さな声で「ありがとう。良かったね。」と言った。また子供の笑い声がした。

その日の夜遅く、彼から電話があった。

「母と話したんだ。聞いたんだ。全部何もかも。」

思ったより明るい声だったか、泣いたのか、少し鼻声のような気がした。

彼の心臓は、彼より数日誕生の早かった異母兄弟の物にほぼ間違いが無い。勿論、結局証拠は無かったが、戸籍を見せると、母親が涙ながらに全てを話してくれたそうだ。やはり嘘や隠し事を続けるのは誰だって辛いのだ。

彼の兄は不幸な事にほぼ脳死でうまれて来た。同じ時期に生まれた私生児の彼は、生まれつきの心臓奇形だった。彼の父親は両方の子を失う危機にあったが、本妻を騙して北海道で移植手術を手配したらしい。その例の教授も移植に関してはこの頃最も積極的だったらしい。すぐに受けてくれたそうだ。勿論、彼の兄のほうが脳死状態で、時間的な余裕が無かった事もその当時の状況で教授を踏み切らせた一因だったに違いない。この事実には、彼の実の父親、母親、それに異母兄弟を失った母親、移植を敢行した教授、そして彼と彼の異母兄の思いとそれを隠す為の幾重の嘘が隠れていた。一つの事実を隠すには、これだけ多くの嘘が必要になるのだ。そしてこの嘘を信じた人間は、その考え方、行動全てが狂って行く。自分は冬山にいるのに、ハワイに暮らしていると思い込まされていれば、誰だって命が危なくなる。すべての隠れた思いは嘘を生み、大勢の人間を危険にさらして行く。

翌日私たちは再びあの昔どや街だった場所の、不自然に明るい店にいる先生に会いに行った。彼があらかた起きたことの顛末を話した。その間先生は黙って深くうなずきながら、時折何かに耐えるように「ああ、すごいわね・・。」とつぶやいた。

「臓器移植の場合、ドナーの記憶が移植された側に影響するケースがある事は何かの記事で読んだ事があります・・。でも自分の場合は物心つく前から兄の記憶と一緒だったからでしょうか、特に違和感はなかったような気がします・・。でも確かに思い返せば、子供のころから何かを『選択』することが苦手だった・・。『これ、好きだな・・』って思えても、すぐに『いや。そうでもないかも。』と否定的な考えが廻ってきて、なかなか選択できない。これでよしと選択しても、いつもうまくいかなくなってしまう。習い事やクラブ活動も続かないし、自分には好きなことが特に無いように感じていました。だから進路を決める時や就職の時、本当に苦しかった。でも仕事をするようになって、自分に言い聞かせてきたんです。『迷うんじゃない。感情に目をつむれ。』って・・。やっと最近は慣れてきたと思っていました・・。でも・・、本当は苦しかった・・。」

彼の声は昔を振り返るというより、自分の中の誰かに確かめるような響きを持っていた。やがて潤んだかれの声は喉の奥に詰まった。嗚咽をこらえていたのだろう。

「きっとあなたは自分の中にある『嘘』に行動が狂わされていたのね。そうなの。騙されていると、自分では正しいつもりでも、なぜか意図しない方向へ行ってしまう。そして意図しない事が起きてしまう事がいつしか当り前で、それが自分の運命のように考えてしまうのよ。いつもどこかに何に対してと言うわけじゃない不安・不満があって、色々な事を自然に続けて行く事が出来なくなるの。結果何事も完成せず、またある個性は自分を責め、ある個性は社会や親を責める事を繰り返してしまう事になるの。そんな例を沢山知っているわ。でもね、冬山だと思って防寒服を着込んでやってきた所が真夏の海だったって気がついたら、防寒服を脱げばいいのよ。つまりね、嘘に気がつけば不都合は自然と避けて行けるの。ううん、嘘がなければ、避ける前に不都合はやって来ないわ。」

「・・すみません・・いい大人が・・恥ずかしい。」

彼は子供のようにしゃくりあげそうになる自分を、取り出したハンカチで目頭ごとおさえていた。

「命は始まってしまえば自然の法則に従った物理現象でしかないようだけど、全く不都合がないから始まった奇跡なの。だからあなたの命を信じなさい。命は続いていけるよう、いつもあなたに道を示しているわ。生きている自分を感じて、それを信じなさい。」

ハンカチで顔を押えて下を向いている彼が突然のけぞるように起き上った。

「うお!先生、これは何ですか!ああ、体がしびれるような感じ!なんか、笑いがこみあげて来るんですけど!」

彼が涙でくしゃくしゃになった顔を上げて子供のように大声で笑った。私も先生もつられるように声を出して笑った。

「これが命よ。あはははは。」

先生が大笑いしながら言った。こんな幸せな気持ちは久し振りだった。

私は彼の事例で多くを学んだ。だが、彼と違って私には昔から何処かおかしい、何かが違うという思いがずっとあった。恐らく男性より女性の方が、本質を感じる感覚がずっと鋭敏に出来ているのかもしれない。命を宿す可能性のある女性は、決して危険な目には遭ってはいけない。その為に発達した何かなのかもしれない。現代の常識のみでは推し量れない、命にたいする何か特別な感覚が女性には備わっているような気がする。もしその感覚を無視して、嘘の多い学問や常識の支配する世間的な性のステレオタイプを信じているとしたら、ガリレオ以前の天動説に従って計算された宇宙ロケットに乗り込むようなものなのかもしれない。特に命を生み出すメカニズムについては、まだ「錬金術の時代」的な知識レベルとしか思えない幼稚さと乱暴さがあるような気がする。だが少し前までの私もそうであった。一般的な常識や、今解っているだけの事で物事を判断しようとしていた。自分の奥深くの感覚を無視して。今度は一人でまたあの昔どや街だった場所の、不自然に明るい店にいる先生に会いに行った。私は自分の抱えた病気の事、明後日に迫った再検査の事、そしてこれが最も重要な気がしている父親の事を素直に話した。私の父は私の思いの中で、私の母親にあんな素敵な表情をさせたあの人なのでは無いかという事を話した。そして私は自分が思いついた計画を先生に話した。先生はセンサーを忙しく回しながら、時折頷きながら話を聞いてくれた。最初の時と同じように、先生に聞いてもらうと、話したのは自分なのにとてもよい話を聞いた気分になった。激しく回るセンサーを両手で押さえながら先生が言った。

「あなたが気がついた事は事実のようね。隠されたなかで最も大きな嘘はこれで暴かれたわね。嘘は暴くことで霧のように消え去り、あなたの周りに正しい流れが戻ってくるわ。でも気をつけないとだめよ。嘘を暴くのはそれが目的なの。嘘をついたことを責めるためじゃないのよ。もし少しでも責める思いがあったとしたら、それは『復讐』になってしまうわ。これではあなたの周りに流れてくるのは『憎しみ』や『怒り』になってしまう。この流れはあなたに不都合を運ぶばかりじゃなく、周りも巻き込んで大きな不幸を呼ぶ可能性があるのよ。よく自分に問いなさい。それでも事実として確かめたいと思うなら、その思いに従いなさい。いい?充分気をつけるのよ。正義は振りかざした瞬間に正義で無くなるの。まるで光を自分の中から外へ出すと、自分の周りに影ができるようにね。だから正しい事はいつもあなたの中で光らせておきなさい。そうそう、これを持っていなさい。」

先生は台紙にのった、白地に赤い文字で「ア」と書かれた500円玉程の丸いシールをくれた。台紙を手に乗せるとあのしびれるような感覚がやってきて気持がすこし楽になった。

「先生、何ですか?これ。」

「『ア』は命を持つ本当のあなたの事よ。迷った時に思い出しなさい。自分を。」

「・・はい。」

頭では理解できても、心で納得していないという事は沢山あったが、心には深く何かがわかったのに、頭が理解できていない体験は初めてだった。私はもらったシールを財布の中にしまった。

私は裁くつもりなど毛頭ないつもりだが、よくよく自分を、自分の気持ちを注意深く確かめた。自分の感覚を信じて、科学に頼るような事は忘れようとも思ったが、その度に思い出すだけで心が幸せになるあの母親の表情が思い浮かんだ。やはりどうしてもあの母親の思いを私の中で解放したい。やはり自分で納得の行く方法で調べてみることにした。

 その鑑定機関は、特別情報管理にうるさい印象があった。料金は少し高めだが、特殊鑑定、つまり毛根や皮膚等身体の一部でも別料金で鑑定できるのだ。普通、鑑定比較する被験者双方から、頬の内側の細胞を綿棒の大きいのでこそげ落として使用する。だがそれには被験者の協力が絶対必要なのだが、私の父親は決してそういったことには協力しないだろう。まして母親はまずありえない。自らついた嘘をこんな方法でばらしたくは無いだろう。私は毛根検査を試して見る事にした。検体収容キットが送られてくるまでに5日が必要だった。わたしはどうしても自分の体の再検査の前に検体を送ってしまいたかった。無理を言いに病院へ行ったが、受付の事務方は全くすんなり受け付けてくれて拍子ぬけした。何かの流れを感じた。隠された思いはやっぱり判って欲しいと思っているに違いないと、何となく思った。

私は父親が朝使う髪の毛用くしに残った髪を丁寧に取り、ティッシュにくるんだ。郵便局止めで送ってもらった検体収容キットの「Child」に、綿棒につけた自分の頬の検体をいれ、「Father」に父親の毛髪をいれた。私は部屋で一人書類に必要事項を記入しながら、小さい時から今までの、父親との記憶がいろいろと蘇り、涙が出てきた。

「ちがうのよ・・。そうじゃないの・・。決別なんじゃないわ・・。お願い・・責めないで・・。」

私は私の中の誰かが私を責めているように感じた。

「よう、どういうつもりだ。」

私は初めてそいつの声を聞いた。私の声なのだが、砂を擦ったようなざらざらした感じの嫌悪感を与える音が混じっていた。全身が硬直したように硬くなった。こいつは紛れもなく私の中にいる別の私だ。昔からいるのは薄々感じていた。いつも何処か斜に構え、何くれとなく批判めいた事ばかりを考えに上らせていた。反論すれば私が思い出すと嫌な気分になるような昔の出来事ばかりを並べたて、無力感と逃げたくなるような絶望感を私に与えてきた。今初めてはっきり声を聞いた。

「ふざけるな。こんな事して・・。じゃ、結果が出たらどうだってんだ。え?父親じゃなかったら、あんたは赤の他人だって言うのか?それとも今度はお前がおやじ騙すか。やめときな。」

「やめて!そんなんじゃないわ!」

私は勇気を振り絞って言った。

「いや、お前はおやじ責めるね。間違いない。母親も責めるね。自分だけ正しいんだろ?で、次はなんだ?本当のおやじ出せってか。なに様だよ。」

「ちがう!本当の事が知りたいだけよ!だれも責めない!」

「本当にそんなことできんのか?おまえに?笑わせんな。」

私はその声に少し揺らいだ。こいつは私をずっと見てきた。私が出来る事と出来ない事を良く知っている。私がいつも困難には逃げ腰で、誰にも悟られないような手を使って人に押し付けたり、うやむやにしてきた事を良く知っている。狡賢くて無慈悲で、言い訳ばかり自分にしてきた事を良く知っている。体面を繕い、不誠実な嘘ばかりで他人を尊重などした事が無い事を良く知っている。いつも仕方ないじゃないと自分を正当化することばかりだった私を良く知っている。私がどんな人間か良く知っているのだ!こいつの言うとおり、後で責めることになるのかも知れない・・。父親の泣き顔が浮かんできた。胸が締め付けられそうになった。

「やめて!出て行って!」

取り乱した私は、記入していた書類を机の上から右手で払い落した。書類と共に机に置いておいた財布が中身をばらまきながら床に落ちた。私は机に突っ伏した。

机に伏せて目をつぶった私の目の前に、突然あの少女が金色に輝きながら現れ、真黒く大きな瞳で私をまっすぐに見つめながら、その透き通るような手でちょっとゴミを払うようなしぐさをした。すると轟音を伴った猛烈な熱風が凄まじい勢いで私を襲った。火傷で全身がぼろぼろになってしまうのではないかと恐怖した。体が震えて大声で叫びたかったが、喉が熱くて声が出なかった。私の足元に大きな穴が開き、ずっと下の地の底に明るく炎を上げるマグマが見えた。私の周りの熱風は炎を伴い、私の周りを取り巻いて渦を巻くようにそのマグマへと吸い込まれていった。吸い込まれる熱風の中に、表情の無い、のっぺりとしているが、間違いなく私の顔をした半身獣の何かがこちらに手を伸ばしながらマグマの方へ落ちていくのが見えた。私は熱風と共に吸い込まれまいと何かにつかまろうと手で空を切ったが、自分が椅子に座って机に伏せている事を思い出した。不思議な事に熱風は私の髪の毛一つ焦がしていなかった。いや、それどころか轟音を上げながら巻いている炎の渦のはずなのに、微風さえ感じなかった。最初物凄く熱いと感じたはずなのに、私を取り巻いていた炎の熱風が地下へ吸い込まれ、足元の穴が勢いよく閉まると全く何事も無かったかのように自分の部屋が私の周りに戻ってきた。私は突っ伏していた姿勢から上半身を起こし、部屋を見回した。どうやら夢を見たようだ・・。突っ伏していた机に目を落とすと、あの、「ア」と書かれたシールがあった。私はその上に突っ伏していたらしい。確か貰った時は赤字で書かれた「ア」の地の色は真っ白だったはずだが、それは一部焦げたようにうっすらと灰色の染みが出来ていた。私は今見た夢であろう出来事を呆けたようにぼうっと思い出しながら、椅子から立ち上がって床に散らばったものをかたずけ、書きかけの書類を机に広げて腕組みをして目をつぶった。

「・・・本当の事がしりたいのよ・・。」

私は恐る恐る呟いてみた。部屋は静まり返ったままだった。私はシールを左手で握りしめながら書類の続きを書き、必要物をすべて梱包した。声は聞こえてこなかった。思い立って私はシールを、梱包した郵便物の目立たない処へ貼った。遠くで犬か何かが長い遠吠えをしているような鳴き声がかすかに聞こえるような気がした。

翌日の朝早く、中央郵便局の時間外窓口へ書留として検体を検査機関へ送った。なんだかすごくほっとした気分になった。結果などどうでも良い気がしてきた。今ならどんな答えも、「そう。」と簡単に流せそうな気がする。郵便局の外には、旬を過ぎた冬が衣を春に着替えようとしているような、柔らかいが芯のある日差しを、抜けるような透きとおった青空に振りまいていた。例のコーヒーショップでカプチーノが飲みたくなった。まだ仕事までには時間があったので、いつものようにカウンター席に座り、明るいガラス越しに朝の忙しい往来を眺めた。あの黄金の少女を良く見る席には、季節で高くなった日差しがこの時間手前のテーブルまでしか届かなくなったが、やはりなんとなくうっすら輝いて見えた。

「やあ!おはよう!」

トレーにカプチーノを乗せた彼が隣に立ってうれしそうに声をかけてきた。

「あら、おはよう。会うと思ってなかったわ。」

「うん。僕も。ここいい?」

彼は私が頷くと隣にすわって大きく両手を挙げて伸びをした。

「ふぁー、気持ちがいい日だ。」

「うふふ・・なんか良い事があったの?」

私は彼が子供のようにはしゃいでいるような気がして思わず聞いてみた。

「あはは、やっぱり君にはわかるよね。実は今月で会社辞めるんだ。」

彼はさっぱりしたように言った。

「え?そうなの?でもなんか前向きな転職のようね?」

「うん。全くそう。」

私は彼の雰囲気が後ろ向きでない事がひしひしとわかった。彼に重なって沢山の人々が絵筆を持っている姿が見えた。体にしびれるような感覚がやってきて、すっと引いた。なんだか笑いが込み上げて来た。

「うふふふ。」

思わず押さえた口から少し笑いが漏れた。

「あははは。わかっちゃったようだね?何か見えた?」

「うん。絵を描きたい人?が沢山・・かな。あははは。」

彼は少し驚いていたが、ますますうれしそうだった。

「やっぱり!実は前から少しづつ趣味でイラストや絵を描いていたんだ。自分では趣味のつもりだったんだけど、好きなことなのかどうか良く分からなかったんだ。でもなぜか確信したよ。僕はこれが好きなんだって。やっぱり好きな事を仕事にしたいなって本気で思えてきたんだ。僕を育てる為に無理をして、働けない体になった母を、僕が今度は養っていかなくちゃって思ってたから、どんなに嫌でも無理をかけない生活ができる仕事で我慢しなくちゃってずっと思って来たんだ。でも今度の事で母となんだか正直な気持ちで話ができるようになった。だから思い切って自分がしたい事を打ち明けてみたんだ。」

彼の瞳からはやさしい光があふれ、その光の中に、彼に重なっている大勢の人々に恭しく囲まれた小さな老婆のうれしそうな姿が見えた。

「うふふ・・おかあさん、喜んでくれたのね・・。」

私は思わず言葉にした。

「あははは。やっぱりわかるんだね。そうなんだ。母はこう言ってくれた。『お前は親孝行のつもりで自分を犠牲にして私を養ってくれてた。ありがたいと思いながら、本当はいつも苦しかったんだよ。自分の産んだ子が、自分を犠牲にしている姿を喜ぶ親なんかいない。お前が一生懸命私の為にってやってくれればくれるほど、早く死ななきゃって思ってたよ。親にとってはお前が一番好きな事をして、自分の夢に努力している姿を見るのがなによりうれしいんだ。お前に隠し事をしていた時は言えなかった。でも今は親として堂々と言えるよ。お前の生きたいように思いっきり生きなさい。親はそうしてもらう為に生んで命を守って来たんだから。それが本当の親孝行なんだよ。』って。今思うと僕は子供の時から絵を描いて暮したいなって思ってたんだけど、なんか本当に好きなのかどうか自信がなかったし、それを仕事にするなんて夢みたいな事だから口に出せなかったんだと思う。生活がどうなるかわからないから、飛び込めなかったって母のせいにして、自分にその勇気がなかった事を自分でも隠してたんだと思う。でももう遠慮する事はなにもない。だからすごく小さいんだけど、僕の好きな作品を作っているデザイン事務所があって、前後も考えずにそこに自分の描いたものを持って雇ってくれってずうずうしく押しかけてみたんだ。あはは。その事務所の作品に表れているように・・まあ僕はそのなんとも柔らかいやさしい雰囲気が好きなんだけれども・・そこの社長さんがすごくいい感じの人で、好きな作家とかの話で盛り上がっちゃって。とりあえずは見習いのアバイトでって言われたけど、即OKしちゃった。いや~生活は大変になりそうなのに楽しくて仕方が無いんだ。」

彼は満面の笑顔で両手を高く上げて子供のようにあはははと笑った。

彼の向こうに見える、あの少女がよく座っている席の前のテーブルに当たった日差しが、テーブルに反射して誰も座っていない椅子の横壁にあたり、黄金のリボンのような形を映し出していた。

私はまた、あのデコデコソファーの待合で「キラッキ」ちゃんハンドタオルを広げ、「やっぱり似合うわー」とひとりにこにこしていた。担当の女医は前回と同じ童顔の先生だったが、今日はリバース・ラインが多めに入れてあって、前回よりなおいっそう濃い化粧の印象になっていた。

「ん~・・。え~っと・・。・・・?」

組織検査・・と言っても、この女医さんの説明によると、穿刺吸引細胞診といって、超音波で幹部を見ながら細い針で組織細胞を吸い出し検査するらしい。女医さんは上半身を脱いでベッドに横になった私の右胸に超音波検査機を当てて画像を見てはカルテを見、前回マンモグラフィで撮ったレントゲンを見て「え~っと・・。」を繰り返していた。前回取り乱した前科がある私は、大人しくしていようと思ったが、さすがに少し様子がおかしい女医さんに落ち着いた声で質問した。

「どうかしましたか?」

なぜか私には不安は全くなかった。頭の隅にはあの晴れ渡った空と陽の光でキラキラと輝く海が見えていた。質問しながら、私が医者のようだと何となく思えてちょっと可笑しかった。

「・・あ・いや、その、患部が見つからないというか・・いや、消えているのか・・・・ちょっとお願い。」

女医さんはモニタのスイッチを切ると少し慌てた様子で仕切られたカーテンの向こう側にいる看護師を呼んだ。恰幅の良い中年の女性看護師がカーテンの内側に入ってくると同時に女医は立ち上がり、何事か耳打ちをするとカーテンから出て行った。中年の看護師はこちらに笑みを向けた。

「少しこのままお待ちください。」

看護師が私の胸に残る検査用に塗った液をガーゼで丁寧に拭き取って、タオルケットを掛けてくれた。私は横になりながら有名な家電メーカーのロゴが書かれた超音波検査機に乗っている二つ並んだモニターの暗くなった画面を何となく眺めていた。(消えたって?・・何がどうしたのだろう。)そうは思ったが、特に不安も焦燥もなかった。私は眼をつむり、頭の片隅にあったきれいな空と海が広がってゆくに任せた。(なんてきれいなんだろう・・。でも、こんな景色はどこで見たんだろう。テレビ番組だったろうか・・。)波が大きくうねり始め、光に満ちて来た。その中にまた、母親と男性がうっすらと現われて、だんだんはっきりとしてきた。母親はまた男性が肩に回した手と反対側の方の、男性の肩に頭を寄せ、ゆらゆらと歩いていた。時折男性が見えなくなり、母親がちょっとだけ悲しそうな顔をするが、二人の周りの景色と服と髪型が変わり、また同じ場面がやって来る。その度に母親は男性によりそっていつもの幸せな表情になった。時代を遡っているCGのようだ。だんだんそのスピードが速くなり、ついには満天の星に覆われた空の下の小さな焚き火の前にいる場面になった。何か強烈に強くて優しい力がそこには流れていた。私は感動で胸がいっぱいになり、涙があふれて来た。いくら離れても、また体温が感じられる距離に戻ってくる・・。まるで永遠のように何度でも何度でも・・。看護師に声をかけられた

「・・あ・寝てしまったようです。」

私は眼を開けて、にっこりほほ笑む看護師に言った。

「あら、いい夢を見ていたようね・・。いま、先生が来ますからね。」

看護師は私のタオルケットをかけ直し、子供にするように軽く肩のあたりをぽんぽんと叩いた。私はよほど無邪気な表情だったのだろう。確かにこんなすがすがしい、やさしい気分はずいぶんと久し振りで、こんな気分で目覚められる事ができる事すら忘れていた。仕切りのカーテンから女医が顔を出し、私に服を着るように促した。私はまた服を着てカーテンを出た。机の前に座っている女医が自分の横の丸椅子をすすめてくれた。私が座ると女医は目の前のレントゲン写真を指差した。

「これが先日のマンモグラフィ検査の時に撮ったレントゲン。ここに石灰化らしいものが写りこんでるのね。触診と一致している場所ね。でも今日の超音波と触診では全く消えてしまっているの。正直、ありえないくらい忽然と消えているのね。今日は採血して腫瘍マーカー値を取りましょう。来週もう一度マーカーを取って、変化がなければ完全消滅ということね。ちょっと考えられないんだけど・・。あ、でも良い事だからいいわね!」

「・・はあ。」

呆けたような返事をしてしまったが、自分ではこの結果を予想していたような気がする。理由は分からないけれど、私の周りに正常な流れが戻ってきたような気がするのだ。それがどんな事柄を意味するのか、なぜそう感じるのか全く分からないのだけれど。女医は腫瘍が消滅して、不思議そうというよりは残念そうだった。職業柄なのだろうが。

私は明るく日が差す病院のドライブウェイを歩きながら、つい2週間前の何かべたべたと粘着したような不安な気持ちと、ここであの少女を見て気を失った事を思い出した。

空にはいくつか雲が浮かんでいた。それは少しだけ傾きかけた陽ざしに照らされ、透明な青い空にくっきりと輪郭を描き、真っ白に輝いていた。私は今朝から頭の隅に、母親の美しいあの表情が、青い空のイメージでずっと張り付いていた。今朝というより、検体を鑑定機関に出してからかもしれない。ずっと母のあの表情を解放したいと思っていた。(・・解放したい?)はたと自分でも何を意味するのか分かっていなかった事に気づいた。『解放』とはどうやら隠された思いを、誰かが気がついて分る事らしい。私は母のその思いを確信している。あの美しい表情は、大切な人に贈る嘘の無い無垢な思いそのものを表していた。私が見たあの二人には、思い出すだけでも涙が溢れそうなくらい優しくて、暖かくて、力強い何かが流れていた。私はそれが私の両親に流れ、私を生み、私を生かす力の根源であるような気がした。それはそこにあるだけで私に心の安らぎと安定を与える。そこからあふれ出る優しい気持ちは、どんな感情も浄化してしまいそうなほど豊かだった。今思い出したあの粘着な苦しさも、あっという間に洗い流し、いやな感情の部分だけきれいに無くして、懐かしいような気持に変えてしまった。何もかもがいとおしい。私はあふれる涙をそのままに、ゆっくりと日向を楽しむようにドライブウェイを歩いた。

翌日、仕事から遅く帰ると、母親がまだ起きていて、居間でテレビを見ていた。

「ただいま。今日はめずらしく遅くまで起きているのね?お父さんは寝たの?」

母はゆっくりと私の方に顔を向けて「おかえり。」と静かに言った。私はその悲しそうな表情に少し驚いた。

「どうかした?」

母は少し首を振ると着ていたエプロンのポケットから封書を取り出し、テレビの方を見ながら私に差し出した。「本人限定受取(特伝)」と書かれた郵便物は、例の検査機関から来たものだった。

「えっ!どうやって受け取ったの!」

封は切っていなかったが、どんな類いの書類かは察しがつくだろう。本人が不在なら局留めになるとばかり思っていたのだが、意表を突かれた。

「ごめんね・・。急ぎの書類かと勘違いして、あなたの保険証を出して『私です』って言って受け取っちゃった・・。」

母はか細い声で、俯きながらつぶやくように言った。私は郵便物が未開封である事を良いことに、誰かに頼まれた事にしてごまかそうかとちょっと思った。だがここで嘘をついたら元も子も無いではないか。思い直して、思い切って母の目の前で開封してみる事にした。きっと事実を明かす事で起きる不都合など存在しない。なぜなら不都合は事実でない事を真実とする所からはじまるのだから。私はハサミを使って分厚く膨らんだ封筒の上を切り、中身を取り出した。母の不安そうな視線を感じた。A4のレポートが4枚、4つに折りたたまれていた。1枚は厚紙のコート紙で、一番上に太字で検査結果が印刷されていた。

(父子鑑定の結果:父子関係 否定)

わかっていたけれど、やはりこうして現実に突きつけられると、血の気が引いてゆく感じがした。だが、今も心の隅にあるあの青空と、ここにいる母とは別人に思えるあの母の表情がまた、心の中に暖かさと優しさを満たして行った。私は思わず私の目から流れる涙を、悲しみとは違う不思議な感覚で眺めていた。母の嗚咽が聞こえてきた。

「そうなの・・そうなの・・。」

ソファーで自分の膝に顔をうずめた。堪えても漏れてくる嗚咽が私の心に響いた。私はすぐ隣に座り、母の上半身を抱いた。

「お母さん・・。」

母は私の胸で子供のように泣いた。「ごめんなさい・・ごめんなさい・・。」と繰り返しながら。私の中の母と、今私の胸で泣いている現実の母が、ゆっくりと、ゆっくりと重なり始めた。母をこんなに愛らしくいとおしく思ったことは無かった。私に厳しかった母のイメージが今の母の後ろに立っていた。だが、それは明らかに祖母の思いをうつされた、操られた母だった。大人たちの見栄や意地と、それを人間の大事と勘違いしている無知が、幼い母にのしかかり、そこでは母の思いは小さな小さな箱のような中に閉じ込めるように仕舞い込み、在った事すら気取られないように忘れ去るしかなかったようだ。祖母の前で小言を言われるときも、母は私をかばわなかったのではなく、かばえなかったのだ。母もまた、じっと自分が顔を出さないように耐えていたのだろう。祖母の悲しそうな顔が浮かんできた。そうか!祖母もまた自分の母親に、その母親もまたその母親に!そしてその母親もまた・・。誰かがはじめた『世間体』や『良家』の偶像は、慣性の法則が働くように、連綿と時代を超えて続いてゆくのか。誰かが力を込めて止めるまで。そして母が私を産んだことは、その流れを止められる大きな力なのかもしれない。危うくそれを隠す事で無力化してしまう所だったが。私の中にまたあの母と男性が現れて、幸せそうに二人寄り添った。私は母がとてもいとおしくなり抱いている母の頭に頬ずりをした。

「大丈夫。大丈夫よ。私、わかったのよ。お母さん、すごくすごく好きな人だったんだなって。その人も、お母さんのことすごくすごく好きだったんだなって。私はこんなに素敵な気持ちの二人から生まれたんだなって。ありがとう、お母さん。」

父・・今この瞬間から義父になったわけだが・・が寝ていなければ、声を上げてふたりで泣いたに違いない。母と私、抱き合って涙を流した。互いにここからすべての未来が変わってゆくことを思いながら。

「お父さんには・・悪いことだけれど・・。もともと本家を継ぐ為の養子という立場では私も同じだから。悪口ではないんだけれど、お父さんの両親は自分の息子が資産家と縁組した事を、なんのてらいも無くその『資産』で喜んで、周りに言いふらすような人達だったから・・。お父さんのお父さんとは親子と思えないほど性格が似ていなかったわ。両親とも私たちが結婚してすぐ相次いで亡くなってしまったけれど。」

私と母は、夜もだいぶ更けたと言うのにお茶を飲みながら昔話をした。私はすこし自分の本当の父親の話も聞きたい期待はあったが、言葉ではなくすでに思いを受け取っていたから、無理に母の思いを言葉に乗せてもらいたく無かった。

「あなたの本当のお父さんの話をしてもいい?」

どうやら聞きたい私の気持ちを察してではなく、私は聞きたくないであろう前提にたっているようだ。私はこんな優しい気遣いを私が母からもらえるなんて思っても見なかった。母は本当は女性らしい茶目っ気を持った、愛らしい人なのだろう。こんな本家だの分家だの言っている世界に居るおかげで、すっかりその部分は現われていなかったが。はにかみながら、少し心配する気持ちが混ざった、なんとも言えない可愛い雰囲気が、その恥ずかしそうな笑顔の周りに溢れていた。

「違うの。すごく聞きたいの。」

私は母に自分が見えた男性の雰囲気や特徴を注意深く伝えた。母は最初少し驚いていたが、私のこの安らかで満たされた気持を理解し、心から喜んでくれた。

「終戦がひと段落して世の中が前に進もうと、ちょっとやけ気味な元気に溢れていた頃、お母さんは親戚が経営していた小さな町工場の事務として勤めたわ。この時初めて自分が貰い子だって知ったの。就職も社会経験の為に本家が仕組んだ事だったこともあって、すごくショックで、落ち込んでいたわ。でもそこに、背の高い、笑うと端正な顔がくちゃくちゃになっちゃう、でもいつも控え目な男性が旋盤工の見習をしていたの。いつもぶっきらぼうなのに、いざという時にすごく優しくて頼りになったわ。」

「あはは、べたぼめね。かわいいわよ。お母さん。」

「ちょっと、やめてよ。うふふ。」

茶化しを入れた私に顔を赤くして、私の肩を軽く小突く母は恋をしている女性の顔だった。本当に好きだったんだなと改めて思い、すごくうれしくなった。

「それで毎日がすごく楽しくなったの。その人とは良く川岸の土手を、仕事帰りに散歩をしたわ。すぐ隣に、彼の体温が肩に感じられるのは本当に素敵でうれしくて、何時間でも一緒に歩いていたいと思ったわ。でも、あのおばあちゃんがそれを知って激怒したのよ。身分が違いすぎるって。彼は東北の農家の出身なんだけど、実家はあまり裕福とはいえず、彼も自分の生活を切りつめて仕送りをしていたわ。おばあちゃんはすぐ私に婿養子の縁談を持って来たわ。彼は工場をやめさせられて田舎へ帰ることになって・・。もうこうなると、覚悟を決めるしかないの。死んでしまいたかった・・。でもね、彼が言ってくれたの。生きていることが大事なんだって。生きてさえいれば、いつか必ず幸せがやって来るって。私が嫁ぐ日の何日か前、彼がいよいよ田舎へ帰るという時、一日だけおばあちゃんをごまかして彼と最後の思い出を作りたくて伊豆に半日旅行へ行ったの。伊豆の海岸を歩いたり、おいしいものを食べたり。私が初めて何もかもお金を出したの。申し訳ながる彼に一度だけ怒ったわ。そしたらそれからはそんな態度は一度も見せなかった。本当にやさしい人だった。」

目をうるうるさせながら話す母は、私が見てもかばってあげたくなる程、切なくて可愛かった。

「私が嫁ぐ日、彼は田舎へ帰って行った。私は彼との思い出を深く深く心にしまって、誰にも気づかれないように暮らして行こうと心に決めたの。だってこんなに大切で、こんなにいとしくて、こんなに思っている事をその為にあきらめるのよ。私はおばあちゃんに従って自分を殺して生きることに決めたの。うううん。お父さんには悪いけれど、あの旅行の日、私は死んだの。だからぬけがらでも一緒に暮らしてくれたお父さんにはとても感謝しているわ。私って勝手ね。」

「お父さんと結婚してすぐ私が生まれたのね?だからお父さんは自分の子だと思ったのね。あたりまえだけど。」

「・・お父さんとは何も無いわ。」

私は耳を疑った。

「今何て言ったの?何も無いってどういうこと?お父さんでしょ?」

「・・お父さんは知っているわ。自分の子供じゃない事。お父さん、そっちは障害があるの。」

衝撃だった。全身がしびれるようなショックだった。

「じゃあ、自分の嫁が自分の子供じゃない妊娠を知ったのに、黙っていたっていうの?なぜ?」

私は自分が興奮して強い口調になっていることに気がついた。「ごめん。」と言って深呼吸をした。

「驚くのも無理はないわ。お父さんも自分のその障害を隠したかった。でないと婿養子の離縁っていう事になりかねないし。おばあちゃんはやるわよ。そう言う事。私もあなたを生みたかった。だから二人とも、このままでっていう事になったの。お父さんは淡々と家族の長と父親を続けてきたわ。まるでお役所に一日も休まず時間どおりに行って時間どおりに帰る律儀さそのままにね。」

私は夫婦の利害を思った。自分自身を権力の道具にされるように翻弄され、戸籍を譲渡された同じ境遇が、互いに夫婦でいる事の価値を生み、隠し事の共犯が絆を生んだという事なのか。

「そうとも言えるけど、実際はあなたが生まれてお父さん、本当に喜んだわ。だからそこからは私たちにはあなたと言う新しい絆が生まれたのよ。」

血のつながりも無いのに、こんなに人を愛せる父を改めて尊敬した。だがやはり二人の隠された思いと、隠した事実は、今までそんな素晴らしい面がある事も隠し続けていた。今日初めて知る事実の二人は、時代と環境に翻弄されながらも実に真摯生きる素晴らしい人間なのに、隠された事実は全く違う反射を持っていた。私がこちらの方がいとしいと思うのは、自分にある大切な部分だからなのかも知れない。

何年か時が経った。私はまたあのコーヒーショップでカプチーノを飲んでいた。あの事実を知って以来、どう考えても私の周りの世界が変わったとしか思えない事が次々起こった。会社ではプロジェクトの責任者に抜擢され、私の好きな人選でチームを再編成できた。私はアイディアが次々湧いてきて、かなりの確率で成功した。おかげで頓挫しかかっていたプロジェクトは1年で完成し、私はその成果で新設の部門の部長になった。本当に部下や友人に恵まれた。いや、世界が変わったのでは無く私が変わったのかもしれない。自分の意識が透明になると、自分にもちゃんといろいろ未来へのヒントが降りてくることが良くわかった。

私生活ではあの心臓移植の彼と結婚した。先生の勧めもあったのだが、お互い自分の過去にあった事実をあばけたのは大きかった。互いに決して相手を騙さないと信頼できるに足る衝撃の体験だったから。

いつもの席にいつものように日が当たっていた。私は自分のおなかに温かいものを感じて鳥肌がたった。あの席に目をやると、あの黄金の少女がいた。だが、どうやら私に用があるのではない様だ。私は子供を宿したことを実感した。金色に光った少女は、うれしそうに私を見て笑った。




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